からだ

「からだ」というのは、もっとも身近にある自然そのものです。昔から「からだの言うことを聴く」という言葉があります。自然に回帰するためには、別に外側の自然に近づけばいいわけでもなく、この自分のからだこそ地球の一部ですから「からだ」そのものの声を聴けば何が原点なのかが自明するものです。

今回は「からだ」の言うこととは何かと気づいたことを書いてみます。

「からだ」というのは、体調が乱れてバランスが崩れると様々なことを言ってきます。それは感覚で伝えてくるものですが、寒気や頭痛、または冷えや肌の色、口の中の渇きや熱、痺れや疲れ、だるさなど、ありとあらゆることを症状という言い方で伝えてきます。

その言ってきたことに対して、どう聴くのはその人の生き方ですがちゃんと聴けば何が起きているのかが分かります。例えば、寒気や熱はこれから免疫が作動するから休みなさいという声ですし、疲れやだるさというのはからだが無理したのだから少し回復までじっとしてなさいという声でもあります。

反対に今の社會のように、自分のからだよりも周りを優先して仕事をするような時代だとからだの声をどう打ち消すかという薬の使い方をしたりします。回復を手伝うというよりは、頭が痛いのは頭痛薬でしずめ、疲れやだるさは栄養ドリンクでごまかし、熱は解熱剤で無理に下げたりします。

現代人はひょっとして本当は病気にしたいのだろうかと思うほどに、「からだ」の声を無視してはその声が出ないようにと抑え込みます。痛いのを抑えたい衝動に脳が負けてしまうのでしょうが、そもそも痛い理由がなぜかとは考えないのかもしれません。対処療法と根源治癒と言い方をしますが、実際は素直さや正直さが根底にないと「根から」にはならないように思います。

話を戻せば、「からだ」の声というのは日々に声をかけてくれています。どんな小さな声でもそれが聴けるのならばその人は自然の声も聴ける人です。

自然の声が聴ける人は謙虚な人ですから、その自然の声を聴く人はバランス感覚もまた優れている人たちです。世の中は、一歩外に出ると様々なストレスの中で歩むことになります。それは不自然極まりない状況の中で、様々な執着が蔓延っています。その中で如何に泰然自若に過ごすのかは内省の質に由るように思います。

自分の心の声を聴き、肉体の声を聴き、魂の声を聴き、からだに従う。

黎明の時間に一人慎むことができてはじめて、「からだ」になるのかもしれません。

「健全なる精神は健全なる”からだ”に宿る」(A sound mind in a sound body.)があります。これはローマの詩人ユベナリスの詩、「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るようように祈らなければならない」の訳です。

やっぱり自分を知ることが何よりも大事で、その自分の代表者でもある「からだ」の声を聴けるようになってはじめて、人は素直さや謙虚さが分かるのかもしれません。

学びを忘れないように知るし、事あるごとに振り返っていきたいと思います。