心の自由~自分自身の発見~

昨日、自由の森学園中学校の卒業式に参加する機会がありました。子どもたちがそれまでの自分に別れを告げて新しい自分に出会っていく様子に改めて自分を育てていくことの本質を考え直す機会にもなりました。

この自由の森学園は、数学者遠山啓の教育論を支柱にして理念を立てられた学校です。この遠山啓氏は競争心を刺激して子どもを育てるという考え方に警鐘を鳴らし下記のように語ります。

「競争心を刺激する教育法は、たしかに手っ取り早く人間をふるい立たせる力を持っている。しかし、その反面、目標を他人におくために自分自身を見失うという欠陥をもっている。」(『競争原理を超えて』遠山啓)

ちょうど競争原理が教育に深く入り込んできて、即戦力や即席栽培ができるような人材を世の中が要請していた時代だったのかもしれません。そういう危機感から「かけがえのない個の人間として、それぞれ異質で多様な可能性を潜ませていながら、いまの画一的な教育の中で萎えてしまっている若者たちの秀でた資質をひきだし、想像力を解放し、心の自由を育てる、そうした教育をつくりだすことを決意した」(設立趣意書)(自由の森学園HPより)ことにより学校を設立しています。

今の時代も経済界の要請により、如何に即戦力即席栽培の人を育てるかばかりが教育現場の議論になっているようですが人間としての基本や基礎が出来上がる時期にテクニックや表面上のマニュアルような哲学を仕込んで上辺だけのコーティングをしても、実社会に出てみたらその現実とのギャップに苦しんでいる若者が沢山いるのをもっと真剣に気づく必要があるのではないかと私は思います。時間をかけて大切なところを見守り育てるからこそ、その人は社會で挑戦しなんども折れずに立ち上がりその体験から学び自ら自分を磨き練り上げる自信を、それが繁栄の社會を育てていけるのです。

話を戻せば、この遠藤啓氏の言葉の中に「心の自由を育てる」という一文が入っています。この心の自由という言葉は、私も好きで学問の楽しみを味わうためにはこの心の自由は必要不可欠ではないかと私は思います。人がたった一人の自分の心と正対し向き合い対話をすることの価値は、その人の人生を豊かにしていくことであり、その人のかけがえのない物語を自分でつくり上げていくことになるからです。

昨日の卒業式では、同じく数学の先生であり校長でもある先生が卒業式で訓辞がありました。その中で「学ぶということは、絶えず自分を毀していくことです。それを自分でやっていくこと。皆さんは新しいステージでも常に自分と向き合って自分を創っていってほしい。」というメッセージを子どもたちに伝えていたのが印象的でした。

この「自分を毀す」ということ、体験を通して自問自答し新しい自分に出会い旧い自分を毀していく。言い換えれば温故知新を続けていくこと、変化を已めない、一生涯変革を続けていくことは他人と競争でするものではなく自分自身とするのだということを伝えていたように感じます。そのために学友があり学舎があり、師弟があり同志がいるのではないかと私も感ています。

競争原理は確かに勉強の意欲を一時的に高めることができるかもしれません。テストも評価も資格取得も、子ども達に勉強させたいから誰かが便利に開発したものなのでしょう。しかし、一生涯その子が学問をしてほしいと願うなら、その子の倖せを祈るならその方法は長期的にみて勉強嫌いになって逆効果になってしまうのではないかと思います。

私の思う本当に楽しい学びは、日々の自分自身の発見と発明です。

道を歩む中で新しい気づきに出会う仕合せに気づく、そして自分の心を磨き育てる豊かさを知る。本当の自由とは自分の心の中で学問できるものだけがはじめて実感できるものかもしれません。

あの子ども達の節目が新たに倖せになるように寄り添い見守りつつも、子ども達にとって自分たちが一体どんな先輩になっているか、恥ずかしくない姿を見せるために徳を高め自らを磨き仲間と研鑽を積み、自分自身の心の自由をいつも自己開発自己開拓への学びを内省しメンテナンスしていきたいと思います。