人は「優しい」というのは、人の気持ちが自分のことのように分かるということでもあります。相手のことを思いやるから優しくなれますし、優しいのはその人の倖せを深く願う真心から来ています。
しかし優しいというのは強さが要ります。ある格言に「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる価値がない」というものもあります。
一見矛盾しているようですが、優しさと強さがあってこそ真心を発揮することができるからです。優しいだけでも強いだけでもそれは本質的な優しさではないように思います。
思い返してみると、学校の思い出にいじめがあります。大なり小なりいじめはありますが、いじめられる子、いじめる子に分かれてはお互いを傷つけあっていきます。しかし、その中でも優しい子どもは自分がいじめる側につくくらいならと学校に行かなくなっていきます。
不登校になる子どもには優しい子どもが多いというのは、優しさゆえに自分を責めてしまうからです。子どもは最初からみんな優しい心を持っているように思います。いのちを慈しむ”かわいそう”と感じる慈心の事です。
学校では、強くなれ、やさしさだけでは社会では通用しないぞと色々な圧力を各方面からかけられましたが、実社會に出てみたら確かにそんな社会もありました。しかし現実に社會を創る側にまわってみると、実は真逆で真心でなければ本質的には通用しないことを自覚するのです。
表面上周りに合わせて社会に慣れるのと、社會を本気で変えていこうと生きるのではその生き方がまったく異なっていきます。子どもたちのためにと社會を善い方へと変えていこうと思ったら優しさというものは必要不可欠です。そして表面上ではなく本質的な優しさを発揮していくために真の強さを持たなければ子どもを守ることはできません。
つまりは、優しく強いというのは子どもの周りの大人たちに必要なモデルであり、優しいままでいいから強くあるようにと見守り育てていくことが大事なのではないかと思うのです。
弱いから強くしよう、優しいから厳しくしようとするのは真心からではないような気がします。弱く優しいからこそ守ってあげよう、そしてそういう人たちを守る社會を育てていこうとするのが思いやりだと私には思います。
社會はどこでできてくるか、それは子どもたちの創りあげたい社會が今の社會です。私たち今の大人が作った社會を無理やりに子どもに押し付けるのではなく、子どもが望んでいる社會をよく見つめ、どうやったらその社會が実現するかを考え直して見守り育てていくのが私たち大人の使命だと感じます。
人を傷つけるくらいなら自分が傷つけばいいなどという自責の念で潰れそうな子どもたちをひとり孤独にしていては世の中から希望が失われていきます。希望を与えるには、強く優しい真心の実践が必要です。
自分が自分に打ち克つからこそ人を深く思いやれ、そして自分が希望を捨てずに最期まで諦めなかったからこそ目の前の人の心を強くしていくことができるように思います。常に優しさと強さは心の持ち方、心の在り様からはじまりますから、同志の学校教育に一緒に向き合っていく以上さらに奥深い心の本質に入っていきたいと思います。