人間は苦労することではじめて修身することができるように思います。
昔から「若いころの苦労は買ってでもせよ」という格言があります。よく今の時代で勘違いがあるのが、嫌なことをさせることを苦労だと思っている人がいます。しかし本来、嫌なことをすることと苦労することは同じではありません。
例えば、ある人が自分が若いころに嫌な思いをしたからと同じことをさせようとしたとします。それは苦労をしたのではなく、同じ嫌な体験をさせたということです。実際の苦労とは何か、それは自分と向き合って自分を変える、そしてそれが如何に苦しくても自分から逃げずに辛抱することを学ぶことです。
人間にそれがなぜ必要かといえば、その苦労によってはじめて耐え忍ぶことを体験できるからです。忍耐というのは、耐え忍びて克つというように自分に打ち克つ力を学ぶことであり、それができてはじめて信じるということの本質に近づけるように私には思います。
思い返してみても、自分の信は苦労をすることで育ってきたように思います。いくら頭でわかった気になったとしても、実際はわからないことだらけです。その都度、反省と内省を繰り返し、自分の分からないところを周囲の先生に指摘してもらう。そして自らを改善するという具合に分からない自分を自分で直していくのです。
人間はこのわからない自分がいるから苦労するわけであり、苦労はわかるようになるための大切なプロセスとも言えます。何が分かっていないのかが分かるというのは、素直になっているからです。素直という基本姿勢ができるまではいつまでも同じことを繰り返すばかりで改善もしようとはしないのかもしれません。「時間は有限、改善は無限」というのもそれだけ一生涯の中で素直になることは難しいということなのかもしれません。
人間は信じているから辛抱でき、忍耐力があるから希望を諦めないように思います。先に自分が諦めたり、先に自分が自分から逃げればそこにはそれ相応の未来が待っています。しかし自分が先に諦めなければ、石の上にも三年としっかりと辛抱していれば自分の想像しなかったような未来が待ち受けていたりするものです。
この忍耐力というのは自然の力です。
自然界の生き物たちが辛抱強く待つように、四季のめぐりの中で忍耐力を発揮するように、いのちは信の力によって執らわれず抗わずに自然そのものです。
自然の中で強く逞しく育つというのは、苦労し続けるということかもしれません。
逞しく育ってほしいという自然の祈りや思いやりが苦労の中に在る気がします。
時代が変わっても、子ども達には変わらない力をもってこの世の中を逞しく健やかに生き抜いてほしいと親なら皆願うものです。常に自分が分からないことを天が教えてくだいますからその教えを聴けるように真心の一日を過ごしていきたいと思います。