私たちは親祖よりずっと御米を食べて暮らしてきました。
それは国内にある様々な遺跡の中から、炭化した御米が発掘されていることからわかります。縄文遺跡の以前は、陸稲を中心に栽培され、弥生遺跡以後は、水田を中心に栽培されています。
そもそも私たちは自然の一部ですから何と共生をするのかを選択して生きています。この共生とはなくてはならないいのち同根、生死一道の関係のことです。その共生の相手に御米を選んだというのが私たちの親祖です。
人は食べたものでできているものです。何を今まで食べてきたかを観れば、その人のからだが何でできているのか、どこからでてきているのかが理解できます。その元を知ることが自分を知ることであり、その根を確かめることが自分を実現させることのように私は思います。
日本の全ての行事は御米と一緒に学んできたことがカタチになっているものです。それが今では私たちが一番長く食べてきたものを育てたことがないということに大変な危険を覚えます。古来からあるものから離れるということは、自分たちの姿を正しく理解できなくなるということでもあるからです。
御米作りというものは、一生涯の働きであり、御米を食べるということは私たちがなんであるかを知るただ一つの道だと私は感じています。
日本の自然思想家であり医者である安藤昌益という人物がいます。この方の「自然真営道」という著書の中で下記の一文があります。ここに御米とは何かということの真実が書かれているように思うので紹介します。
「米(こめ)は神と同音、米(よね)は世根、稲は寿根(いのちね)の略。稲荷とは人の神身皆稲なれば人常に稲を荷(にな)ふ意。飯は命師(めし)又は身師(みし)の転訛。寿(いのち)は飯中(いいのうち)の略。迷は米吾(わ)を去りて他にゆく意。即ち食を離れた時の心理状態に名づけしものである」
つまり古来、御米こそ日本人のいのちの糧であり心であったということです。
自分がどこから来たのかというのは、これからどこへ向かえばいいのかを自覚する唯一の鍵です。その鍵こそ私は御米であると確信しています。
今年もまた自然に沿った御米作りがはじまりますが、ここで御米から学んだことを後世のために譲り、そして人類の初心のために活かしていきたいと思います。