力の出し入れ~生き方を省みる~

昨日、力を抜くことについて深めてみました。力が抜けているというのは、自分らしくいること、つまりは自分がどうありたいかという自分の生き方の方を優先する自分でいられる状態になっていれば力もまた抜けるということです。

そもそも力というのは何のためにあるのかということです。

力もまたお金と同じように使い道の問題のように私は思います。その力を何のために使うかでその力の価値が発生していくように思います。その力をいつも自分のためだけに使う人、その力をいつも誰かのために使う人ではその力のつき方もまた変わっていくように思えるからです。

私はどんな時に力が出るかと自分を省みると、いつも誰かを思いやって使うときにこそ最大限に発揮されるように感じています。逆に自分のためにやるときは、余計な力が入るだけであまり力が存分に出ている感じにはなりません。この力はお金にも似ていて、貧乏神が自分のためだけにお金を使っているのに対して、福の神はいつも誰かのためにとお金を使っているのと同じように思います。つまり何のために使うのかということがはっきりしているかどうかです。

そして力の使い方とは、常に自分自身の執着が関係しているように思うのです。

私が思う力が出るという、この「出す」技術というものは、思いやりに出すことや、誰かのためにと感謝で出すことではじめてなんでも出てくるように思います。言葉もそうです、よくよく自分や他人の言葉を聴いて観ていたら何の言葉が出ているかでその人の思いが出てきます。「ありがとう」や「おかげさまで」、「たすかったよ」とか「すばらしい」とか、「すごいじゃないか」なとといつも人を励まし信じるような言葉が出ている人はその心は「思いやり」が出ているのです。

逆に余計な力が入っている人は、これらの言葉が出てきません。黙っていたり、文句を貯めこんだり感情をイライラしたり、もしくは周りに矢印を向けていたりと、なかなか言葉に出すこともなくそれが出たときには先ほどの言葉と反対のような不平不満不足不信が出てくるものです。

この「出す」ということをどう出すかでその人の生き方が出てきます。思いやりのために出そうとするか、自分のためだけに出そうとするかはその人の生き方次第です。

力の出し入れ具合にはその人の生き方を省みるキッカケになります。力を入れるときは自分を信じること、力を出す時は人を思いやることと、力を大切に使わせていただける自分でいたいと思います。

 

力を抜くことの意味

人は力の入れ具合で自分の状態を見つめることができるように思います。例えば、緊張すれば肩に力が入りますし、考えすぎれば目に力が入りますし、気合を入れ続ければ手に力が入ります。人のからだというものはとても正直で、無意識でも自分が何に力を入れるかでその力をコントロールして調整しているものです。

よくスポーツや競技、その他の運動技術を必要とするものにはすべて「力を抜く」技術というものを磨いていく必要があります。それは大きな矛盾の寛容であり、例えば”気は抜かなくても肩の力は抜く”とか、”心をリラックスしつつも、隙がない”とかよく名人や達人、トップアスリートたちは心身統一というものを大事に訓練しています。

最初に力が入りすぎる原因は何かと思うとき、そこには無理をしているということがあります。その無理とは何か、それは自分自身への執着のことです。力を抜くというのは、言い換えれば「自分らしくいる」ということです。どこかその人が自分らしくいることよりも、自分の周りからの目を気にしたり、上手くできないことにイライラしたり、自分自身であることよりも自分がやらなければならない自分像ばかりに固執するとその人自身がその人らしくなくなってくるものです。

そしてその人らしくないというとき、必ずどこかに力が入り過ぎているのです。

私の場合は、できないことを悩むよりもできることで貢献しようと諦めています。よく仕事は選ばず感謝で行うや、謙虚な気持ちで何でもできることはさせてもらおうと周りのために利他で生きる人はみんなその人らしくそして自然体です。我を押し通し、傲慢になり自分の力に固執して自分ばかり成長しようと考えてしまうと、そこに信は失われ余計な力が入るように思います。

自分の心を開いていくことや、自分から刷り込みを取り払うこと、自分から自分の我執を手放すことで人は余計な力が抜けていくのではないかと私は思います。

余計な力は時として、人を傷つけそして同時に自分をも傷つけてしまうものです。いっそのこと天才バカボンのパパではないですが「これでいいのだ」と全てを丸ごと受け容れてその中でも少しでも役に立てたことが有難いと謙虚になんでもさせてもらおうとするならばその人は必ず周りの人々の御蔭様をお借りして努力が実り理想に達することができるように思います。

焦りや慢心というものはすべて傲慢から発生してくるものです。私自身も上手くいくかどうかよりも御蔭様の有難さ、周囲の恩者たちへの感謝を忘れないよう、忘己利他の実践を大切にしていきたいと思います。

何度も何度も繰り返し教えてくれるのはきっと「あなたらしくなってほしい」という天祖の声を御縁が与えてくれているのかもしれませんし、「心をもっと周りに開いて自分らしくあってほしい」という真心の声をからだが伝えているのかもしれませんね。

どちらにしても自分を形成してきた完璧主義や評価の刷り込みがあるのだろうと自覚したら、周りをもっと信じて、できない自分をそのまま丸ごと認めて無理をしないことが一番です。時々の初心を省みる善い機会、ゆっくりと焦らずにじっくりと回復していくことを祈っています。

実践の価値

「習慣は第二の天性なり」という言葉があります。これは身についた習慣は、知らぬ間に深く浸み込みいつしか生まれつきの性質のようになるということを言う意味です。

この習慣というものは、その人の考え方の癖であり生き方の癖でもあります。その人がどのような癖を持っているかは、人に言われてみなければなかなか分からないものです。なくて七癖とも言いますが、自分には癖がないといくら思っていても他人からみれば沢山あるというのと同じようにその人だけが気づかない癖を持っているものです。

その癖は時として、その人の人生の癖になりますから同じような失敗を何度も繰り返したり、またはその癖の御蔭様で人生が好転し続けていくというものもあります。例えば、素顔の笑顔が多い人はその分、心と感情と行動のバランスが一致することが多いですから他人から信頼され可愛がられていきます。他にはつい自分勝手なことばかり優先してしまう人はまわりから疎まれてしまいます。自分自身では生まれつきだからと最初から決めつけてしまっていますが、実はその癖は自分の人生の習慣によって形成されているということです。

この習慣を見つめ、習慣を変えることができる人は自分を変えることができる人です。自分を変えたいのに変わらないと周りに矢印を向ける前に、自分の習慣は果たして変わっているのかと自分に矢印を向けることで習慣という癖に向き合っていることになると私は思います。

その習慣を変えるために必要なコツは「実践」することです。

実践とは、一言でいえば「執らわれない」ことです。頭で考えているうちは習慣は変わらず、癖も直すことはできません。自ら考えないで日々に前進するには、そこに考えないで済むような何かを持ち続けることで一つの事に執着しない自分をもつ必要があります。

人は何かを悟ればそれに固執しますし、もしくは何かを思えばそれに執着します。そんなことをしてしまえばまた習慣と癖がこびりついてしまいますから、新たな実践を日々に継続することでそういう執らわれをなくしていこうとするのです。

このブログもそうですが、実践していくことは今に集中することでもあり、また自分の中にある執らわれに気付き、それを改善していくことができるからです。上手くいくとか上手くいかないとかよりも決心したことを実践することが何よりも価値があるように私は思います。

自分自身を変革する心は、こうありたいという理想の自分から来ています。自らの理想に向かって視野を広げ、かけがえのない日々に感謝を置き据えて、させていただけることを深く味わって実践を楽しんでいきたいと思います。

素直の手入れ~認めるということ~

人は人間関係で悩むとき、そこに互いの利害が発生していることに気づくものです。もしくは自分の好悪感情から、好き嫌いを分けては感情が波立ちそのことからトラブルが発生していくものです。

結局は、自分の中にある執着や固執が相手との中の軋轢になっているとも言えます。松下幸之助さんは「素直な心」を持てば、そういうものも談笑のうちに和やかに仲良くできると言いますが、この素直な心とは常に自分の方が変わるという心のことを言うように思います。

人間関係で問題が起きてくる最も大きな原因は「認めない」ことに由ります。自分が相手を認めていないからこそそこに認めさせようとする互いの軋轢が発生するように思うのです。そこにはプライドがあったり、自分の我の方を優先したいという我儘があったり、正しいと一方的に思い込んでいる傲慢があったりと、問題が起きては「身から出た錆び」だと自分に矢印を向けては反省していないと何度も繰り返し同じことが起きては素直になれなくなるものです。

この「身から出た錆び」とは、刀から出た用語であり刀身が錆びて腐ってしまえば刀も自分の身も失ってしまい取り返しのつかないことになるという意味です。これは人間関係も同じで、本来の心が素直ではなくなってしまえばそこに問題が生まれそのことから取り返しのつかないことをしてしまうということと同じです。

刀であれば日々に怠らず手入れをすることで錆びないようにしていきます。そして人間であれば日々に怠らず心に手入れをして素直のままであるようにしていくのがいいのでしょう。

日々に素直かどうかの内省は、日々に認めているかどうかのチェックでもあると私は思います。どんなことも認めていく、そのことから融通無碍で一視同仁、公平無私の柔軟で素直な心が育つなら自ずから人間関係は和合し倖せと豊かさを感じる謙虚な自分のままで愉しい社會を暮していけるように思います。

素直の心は奥深すぎて、その学びに一生涯の修行の醍醐味を感じます。

初心と同じく、座右に据えて実践を取り組んでいきたいと思います。

 

自然の王道~天信助心~

この時期は秋に収穫するための苗作りに余念がありません。昨年、育てた野菜の種を今年の土に蒔いていくことは昨年ともに無事に暮らしてきた有難さも実感しめぐりの倖せを感じます。

そもそも育てるというのは、御互いの心を天に通じ合わせるということです。何もしなければ育てているとはいわず、何かをするから育てるのですがその育てるということは、生きる道の上で御互いの信頼関係を結ぶのにとても似ています。

本来、野菜を育てるのは最初から「野」にあったものを採集しにいくのではなく種から見守って育てたものを「野」に戻すのです。「野」というのは、あらゆる生き物たちが暮らしています。そこには一つの自然の社會が存在します。自然の厳しい社會環境の中で、存分に自らの野生を発揮しては生き残りをかけて全身全霊で暮らしています。

それは植物たちや虫たち、動物たち、菌類にいたるまですべてのいのちは自分のいのちを燃やし切り他と共生し他を食べ、生死のめぐりを繰り返しつつも貢献し合っています。

弱いいのちではすぐに淘汰され、他のいのちに呑まれてしまいます。そんな厳しい環境の中で育つように適宜つかずはなれずそのものと対話して生きる力を信じて見守る必要が出てきます。

一生涯、ビニールハウスの安心安全な中で育てることもできますがそれでは環境の変化に順応できる力強い生命力は身についてはいきません。もしも永遠にビニールハウスで育てるのならいいのですが、自然の変化に適応して順応するにはそのものの生きる力を引き出していくしかありません。

また私たちは栄養だけではなく、いのちを食べていますからいのちを燃やし切りいのちを引き出して育ったもののいのちをいただくことは自分に元気を取り入れることです。

厳しい野の中で、御互いのいのちをめぐり合わせることで”自然の真心”を実感でき、そのことが私たちのいのちの感覚も育てるのです。

厳しい環境の中でも負けないように弱いところはカバーするということが具体的な見守る方法です。「あなたのことをいつも見守っているよ、あなたが生きようと真摯に生きるなら必ずあなたを助けてくれる存在があるよ」という心を持って「野」に戻すのです。これが天を信じ助ける心、つまりは王道に入ったという証です。

野に戻ったいのちは、その信を心に抱き自然の法理に従って生きる道を間違えず種になっていきます。私が自然からもっとも学ぶものは、自然には確かな真心があり、そこには確かな王道が存在するということです。この境地を知るために実践修行を積み重ねているといっても過言ではありません。

自然の王道から外れないように、自然の真心をもって育てつつ育てられる存在のままに学び直していきたいと思います。

感謝感情

人間には自我感情があります。感情の自分というのは、気分の良し悪し、調子の良し悪しがあります。

例えば、何かずっと楽しみにしていたことがあったとします。それが急に不注意から怪我をして何もできなくなると気分は最高だったところから最低に急落します。まるで感情は天気のように晴れたり曇ったりと、その時の状況で変化します。それだけ感情というものは自分にピッタリと寄り添いその時の状況にあわせて自分の気持ちを感じます。

人間はこの感じる力によってその時々を味わい、自分がどんなことをしたいのかを知るのです。ドイツの詩人、ゲーテの格言と反省にこういうものがあります。

「生活はすべて次の二つから成り立っている。したいけれど、できない。できるけれど、したくない。」

これも感情の変化で語られる言葉であろうと思います。結局は、感情がしたいしたくないと決めているのです。どんなに自分のやるべきことがあったにせよ、自分がしたくないのではあまり効率も効果も上がっていきません。また逆に自分がしたいと思っていてもそれができなかったら感情がまた高ぶってきては効率も効果も下がってきます。

この感情というものをどのように向き合うか、それは実際の人生において大変重要なことであろうと私は思うのです。これをお座なりにしていては、自分自身を管理することができないようにも思います。自己管理とは、健康や体調だけではなく精神や心、そして今回の感情というものが大きく関わってくるように思います。

感情とどう付き合っていくかは、その感情の変換の仕方にあるように思います。例えば先ほどの天気なら晴れも善し、曇りもまた善しと融通無碍になれるかどうか、もしくは自分にとってのマイナスな感情が起きても、それを素直に有難い試練や成長の機会だとプラスに転じることができるかどうか、ここに自己修養の要諦があるように思います。

何をしていても感情は高ぶります、それをいくら避けようとしても人間はロボットや機械ではないのですからそこに本来の目的や使命を実感するものです。そもそも何のためにやっているのかの初心を忘れなければ、やりたいこともしたいこともできようができなくても実践していこうと思うものです。そうやって実践しているうちに、自分の感情が上下左右していることに気づいても変わらずに平常心でいることの大切にさに気づくようにも思います。

自我感情との向き合いは、それを転じて善いものに換えるときにはじめて「良し悪しなし」という境地に出会えます。カグヤには「円満祝い唄」というものがありますが、その中の歌詞に「いいもわるいもないんだよ」という部分があります。

これが私の思う素直さであり、順境も善し、逆境もまた善しの感情、つまりは感謝感情の境地です。自己修養と自己研鑽を怠らず、星のように急がずに休まずに取り組んでいきたいと思います。

 

自他一体のフィードバック~おもてなし~

人は相手の立場に立つことで相手のことを深く理解できます。

以前、ホスピタリティについてあるニューヨークで大変有名なレストラン経営者ダニーマイヤーさんの話を聴いたことがあります。

その際に「ホスピタリティを高めるには、相手の『ありがとう』に対して『それはなぜですか?』を集めていけばいいだけです」とありました。お客様へのおもてなしは、相手が嬉しいと思うこと、有難いと思うことを集めていけばいいとありました。

実際は簡単なことですがそれを継続して実践していくには仕組みが要ります。

人間は放っておけばいつも自分本位でばかり物事を考えます。自分の興味関心のみに追われ忙しくしては自己保守に終始してしまうものです。そうやっていつも自分の事ばかり考えて自分の感情でばかり事実を見ていたら、相手の気持ちに共感することを忘れてしまうのでしょう。

ホスピタリティとはいつもどんな時でも相手の心に寄り添っているものです。心を寄り添うことも怠り、自分のやりたいことばかりを周りに押し付け、心を合わせもしない、それを決してコミュニケーションとは呼ばないように思います。対話というのは自分の要求を押し付けるのではなく、どれだけ心を寄せることができたかということです。そして心を寄せるものだけが真の行動と真のアイデアをカタチにしていくことができるように思います。

思いやりや真の優しさというものは、一事でいえば”心を寄せ続けてそれをかたちにしていく”ことであり、それを毎日小さなことを積み重ねることで自他一体の場所に表裏なしの人格が磨かれるようにも思います。自分を心配しすぎて心を寄せないから心を亡くし頭で考えて何かを急にやろうとしても、付け焼刃では付け焼刃の結果しか訪れません。相手を自分そのものになるくらい、相手の心に寄り添うことが相手に安心され信頼される人になっていきます。コミュニケーションの本質は人は相手を通じて自分を見つめ、そして自分の心を見つめて大切にすることで相手の心を見つめ大切にするのです。

相手ばかりをみては矢印を相手に向けるだけになったり、自分だけを見ては自分にだけ矢印を向けるのではなく、相手は自分かもしれない、自分が相手だったかもしれないといつも思いやることではじめて仕事も本物になっていくのでしょう。そういう人がご縁を感じ、御蔭様が観得て、感謝のままでいられるのです。

すぐになんでも自分で一杯にする前に、もっと相手を喜ばせたいや有難うと言われたいと心楽しく身近でできる小さなおもてなしに取り組んでいくことでおもてなしのできる素直な心もまた育っていくのかもしれません。

お客様からのありがとうを自他一体のフィードバックを通して一つ一つカタチにしていきたいと思います。

自尊感情

先日、自尊感情について考える機会がありました。自尊感情とは何か、それは私の言葉では自己認識のことです。自己認識とは、自分がどうしたいのかを自分が素直に理解できるということです。自分自身の気持ちが感情を含めて分かっている、もしくは自分自身であることを肯定できているという状態のことです。

論語にこういう一文があります。

『子曰、人之生也直、罔之生也幸而免』(子曰く、人の生くるや直し。これをしいて生くるや、幸いにして免がるるなり)

意訳ですが人は自分の素直でなければ真に正しく生きることができない。これまで生きてこられたのは運が善かっただけだという意味です。他にも論語の中には、正しいことを理解できるには本当の意味で自分自身を素直に理解できなければ難しいという言葉や、克己心の中で自分を知ることの大切さを何度も語り掛けます。

これは自分自身との付き合いにおいてどれだけ自然体であるか、言い換えれば素直であるかが大切だということです。人は実際は外側で発生する失敗は、ほとんど全ては自分自身になれないことで発生します。つい他人の評価や、自分を何かと比べて評価することで自己認識していますが本当の自分の心に素直になれないから問題がいつまでも解決することがなく繰り返されてしまうのです。

人間には感情というものがあります。

よく感情を押し殺して我慢して感情と自分を分けている人がいます。しかしこれは本当の自分ではありません。自分の感情を含めて自分自身ですから、自分の中にある感情を肯定して自分自身と認識しなければいつまでも他の人との心を結び和合していくことができません。

自分自身との和合ができるということがあって人との和合もまたできるからです。その和合をするには、「心から笑う」ことができたり、「自分自身が納得している」ことであったり、「自分の心を開く」ことができていることだとも思います。

自分自身のことを自分自身がどのように認識しているかは、その人の人生観を決め、その他の人たちの価値観を決めてしまいます。丸ごとの自分を受け容れるとき、人は本当の意味で自分に自信を持つように思います。丸ごとの自分の中に感情があることを受け止めるということは自尊感情を大切にするということです。

自分を我慢して自分を粗末にしてきたら結局は同じように人を我慢させ人を粗末にしてしまう人になってしまいます。「自分はどうしたいのか」という気持ちの方と向き合うことで人は本当の自分自身に出会い自分を大切にすることができるように思います。

自分は天から与えられた存在だからこそ、その自分を大切にすることが天に報いるということかもしれません。自分自身を大切にする真心をもって周りの人たちのことを同じように思いやれるということが素直な自分自身になるということかもしれません。

自分が自分でいられなかった社會のツケは、子どもたちの心に深い影を残してしまいます。社會を変えるということは、これらの刷り込みを取り払い自分自身でいい、あなたのままでいいという環境を醸成していくことです。

自他に無理をしないその人になっていけるよう、自分自身が素直を体現し、その人の刷り込みを取り払えるよう祈りの実践を高めて直向きに真心を盡していきたいと思います。

集団の自立~教えずに助ける~

自立の中には個の自立と集団の自立というものがあるように思います。いくら個を強くしてもそれは個の自立ではなく、本来の個が本当の意味で強くなるには集団の自立が必要だと思うのです。

そもそも自立というものは、一人だけで立つことを言うのではなく集団の中で自分を立てることができるということです。言い換えれば、他の人がいる中で自分を役立てることができるということです。人は一人では生きてはいけません、簡単にいっても最低二人いなければ子孫もできません。社會をつくる動物ですから、人間社會の中で様々なことをカバーし合って生きているのが私たちとも言えます。

しかし子ども時代から振り返ってみると、なんでも一人でできる子どもになるように育てられたような気がします。自分のことは自分でするのが自立だと言われ、できないのは自分のせいだと教え込まれてきました。迷惑をかけるなと言われては、迷惑をかけないで生きるようにと教えられます。

実際の社會に出て観たら迷惑をかけないなどということはありません。人間が一人生きていくのには本当に多くの方々の有難い助けがあってはじめて生きていくことができます。それは活かされているという言い方でもいいのですが、私たちは周囲があってはじめて自分を存在させていくことができます。

自分の存在を肯定できるというのは、周りの存在も肯定できるということです。それは有って当たり前の存在であり、まるで家族のようなものです。存在そのものが何かのお役に立っているという実感です。しかし一たび自分が認められていないと感じてしまうなら、無理をしてでも認めてもらおうと頑張ってしまいまた個ばかりを強くしようとして集団の邪魔になってしまったりします。

集団を強くするというのは、周囲に感謝して周囲を活かすということです。そして同時に自分の得意や持ち味を存分に発揮して周りを援けるということです。教えてばかりで助けず、できない人に無理にさせようとして最後はツケ放すでは集団が強くなることはないと思います。個が強いとか弱いとかを言っているのではなく、個別に一斉に個ばかりを強くしようとして、その人が孤立無援になってしまっては人間社會の生きる力を思うとき、それは本末転倒ではないかと思います。

人はどんなに頑張っても一人でやるには限界があります、だからこそ多くの人たちと一緒に協力をして偉大なことを成し遂げます。人類の生き延びてきた能力をわざわざ捨てるようなことを選択することは遺伝子も望んでいないから苦しいのです。もっと楽しい方を選択し、協力和合してお互いの持ち味で周りをカバーする生き方に換えていくことでその人の個の自立は実現するように思います。

刷り込みが多く今までの習慣を変えるのは大変ですが、よくよく内省を深め新しいあり方のモデルを創造していきたいと思います。

友立ち~海の真心~

先日、館山でジャック・マイヨールの親友だった方のお話を拝聴することができました。貝のお話やダイビングのお話、また生き方や体験談など本当に愉しいお話をたくさんいただきました。

人は生き方が”からだ”からにじみ出ているものです。

何を大切にして生きているのかは、一目で雰囲気で語りますが話を聴けばその深いところに沈んでいる愛情すらも実感できます。友人というものは、友人の何を愛していたかでその人の目指す生き方が何を目指しているのかを教えてくれるように思います。

私も尊敬する方々がいますが、その尊敬する方々の生き方の中にこそ自分が憧れた夢があります。その夢を継いでいくのが友立ちなのかもしれません。

お話の中で特に印象に残ったものがあります。

生前、ジャック・マイヨールさんはこのままコンピューターが進んで人類が方向を誤れることをとても心配し警鐘を鳴らしていたそうです。そして人類がもしも間違わないのなら、便利さや快適さの半分を自ら手放す勇気が要ると仰っていたそうです。

親友の方がこの話を選んでくださったのも、私たちの志事が子ども第一義の理念で三つ子の魂百までに関係するからです。私たちの目指している今の生き方の本質を理解してくださったようで、とても嬉しい気持ちになりました。

本来、志事はどこまでの広さで世界とするか、またどこまでの深さで物事を決めるか、そしてどれだけ遠いところを見つめて日々を歩むか、つまりは生き方の実践にその人の志した全体像が出てくるものです。世間の評価ではたとえそれはちっぽけで変なことをしているように見えているとしても、その人が夢や愛をどれだけ深く沈めているかでその本当の偉大さが顕れるのでしょう。

人間に対する深い愛はまるで海そのもののようです。

深海に潜る真のダイバーの方だからこそ、その深く潜っているところにあるものの存在を伝えることができるのではないかと感動しました。不思議なご縁をつないでくださった存在のすべてに改めて感謝します。

今日からまたいつもの志事に精進させていただきますが、大切なメッセージを受け取りそれを磨き続けて醸成し、明日の現場実践に活かしていきたいと思います。

ありがとうございました。