樹と話す~大和心~

昨日、樹と対話するということについて話を聴く機会がありました。例えば、樹を使い何らかの道具を創る人たちや、植木に関する人たち、樹医などは樹と対話をしてはその樹のいのちを見極めそれを伸ばす力があるように思います。

もし樹と話すと言うと、今の時代では不思議な人だと言われたり、もしくは奇人変人、何かしらの怪しい信仰の人などと言われそうなものですが現実に農家であれば土から学ばなければなりませんし、動物を飼育してもその動物から教わらなければできませんし、たとえビジネスでもそのビジネスそのものから勉強していかなければ本質を理解することはできません。

なので昔の職人と呼ばれる方々は”そのものと対話する”ということを基本に据えて学んできた人たちなのです。私たち日本人は職人文化を持つ種族であると世界も認めています。老舗企業がもっとも多いのも、職人的に様々な文化を伝承する技術が遺っているからです。これもまた、そのものとの対話をする方法で伝授します。

法隆寺宮大工棟梁の故西岡常一さんは、樹を通して飛鳥時代の工人たちと対話をしその時代に使っていた道具、槍鉋を復刻されました。このように時空を超えて、そのものと対話するというのは別に宗教地味ているなどという話ではなく本来、知識が増える前の私たちの先祖が当たり前に行っていた自然の学び方であったのです。

もしも私たちに言語と知識がなければ当然マニュアルは存在しません。そうであれば、私たちの学び方はそのものから学ぶということであったはずです。昨日は、樹の声を聴くということをテーマに、樹のいのちをどう伸ばすかについて体験しましたが、樹の特性を見抜きその樹が何の役に立つかを見定めそれがもっとも価値ある別のいのちへ変化するのを目の当たりにすると感動を覚えました。

最後に世界で有名なヴァイオリン職人の中澤宗幸さんがあるヴァイオリンを解体した際にその内側に詠まれていた素晴らしい詩をご紹介します。

「私が森にいた時、木陰で人を憩わせ
今はヴァイオリンとなって歌って人を喜ばせる」

まるで樹の心を代弁するかのような詩に、このバイオリンの職人の方はきっとその樹と対話をしていたのではないかと感じます。人は心があります、そして同時に”もの”にもまた心があります。これがわかることを日本では大和心があるといい、開祖代々から「もののあわれ」として数々の神話や物語の中でずっと語られてきたものです。それは私たちには本来自然の中で対話し聴く力が備わっていた、つまりはどのような”いのち”とでも真心で対話をしてきたということなのでしょう。

果たして豊かになったと言われている現代の私たちは、今ちゃんと対話をし本当に聴いているでしょうか、真心で聴こうとしているでしょうか。

先人たちの智慧はいつまでも光り輝き私たちに後世のためにどういう生き方をすべきかを訴えかけてきます。引き続き、子どもに関わる志事をするのだから聴けなければなりません。そして魂を磨き心を救いたいと祈るのだからこれからも聴くとは何か、話すとは何かということと正対し深めていきたいと思います。