人生は人それぞれで違うように人の夢もまた人それぞれで異なります。みんな誰にしろやりたいことがあり、そのやりたいことを成し遂げようと人はみんな産まれてきます。
しかし実際の社會に出て見渡せば、そんな我儘は許されないと厳格なルールと秩序によって特別な人や特殊な人を認めようとはせずに十羽一絡げにしてはその価値をなくしてしまおうとします。本来の価値はダイバーシティ(多様性)であり、それぞれが異なるからこそ持ち味を活かせ本来の人間としての歓びや倖せにつながる役割に気づくことができると私は思います。
そういう意味では人生は誰にしろ冒険であると言えます。
私が小さい頃から大好きだった冒険家に植村直己がいます。今になってなぜあんなに大好きだったのかを自明してきました。夢をあきらめず、好奇心いっぱいに子ども心のように生きて働いた生き様、そしてその心の大きさに惹かれたからです。
今になって齢を経れば経るほどに、同じように生きているだろうかと自分の冒険心を内省します。枠があっても枠を超えていく、前人未到の境界線を引き直していく、常識にとらわれず真実や本質を実践によって子どもたちに伝えていく、その生き方に感動するのです。
植村直己は下記のような言霊を遺します。
「大切なのは夢の大小ではなく、その夢に向かってどれだけ心をかける事が出来たか。心の大小が大切なのだ。」
心の大小といいました。まさに心をどれだけかけるか、そこに夢の価値があるのです。人からなんと言われても、自分の真心がそう思うのなら至誠天に通じるとして人事を盡すのが夢ということです。
「人の生きる本当の価値は、お金や肩書きなどではなく、夢を追い求め一瞬一瞬を精一杯生きることにあります」
そして心が決めたなら二度とない今を真摯に生き切ることが生きている喜びであり、産まれてきた充実であると自身の体験と実感から語り掛けます。さらに事に正対しては下記のように言います。
「あきらめないこと、どんな事態に直面してもあきらめないこと。結局、私のしたことは、それだけのことだったのかもしれない。」
希望を失わなかった、好奇心を忘れなかったというように私は解釈しています。しかし最後は冬のマッキンリーの登頂で山頂に国旗を遺し同時にいのちを失ってしまいます。その植村直己は私たちにこう伝えます。
「冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である。冒険とは生きて帰ることなんです」
吉田松陰も植村直己も、至誠を貫き最期は非業の死を遂げましたがその魂は燦然と光り続けて子どもの心に燃え続けています。人がなんといおうが、その人が遣りきった人生というものは永遠の余韻が遺るように思います。魂はまるで死んでおらずいつまでも後に続くものたちへ受け継がれていくかのようです。
過去の偉人はみんなすごいことを成し遂げているから蛮勇だと思われがちですが、実際は大変な臆病者であったといいます。植村直己も冒険家の資質とは臆病であることと言い切っています。負けない戦いができるもの、謙虚に己に打ち克つものだけが到達できる境地こそ真の臆病者=達人ということなのでしょう。
最後にこの言葉で締めくくります。
「始まるのを待ってはいけない。自分で何かやるからこそ何かが起こるのだ。」
自分で何かやるからこそ何かが起こるというのが世の中の事実です。誰かが何とかしてもらうのを待つような自分の一生ではなく、自分が何とかしようと自らの実践を積み重ねることで世界を丸ごとを素晴らしく変化させていくことに生きるのです。
人類が目指す理想に向かって、冒険家たちを集めて無二の航海を楽しんでいきたいと思います。