裸の心

人間はみんな我があります。特に我が強いということは、理想が高いということでもあります。しかし同時に我が強いということは、それだけ自分に執らわれやすいということでもあります。自分に執らわれれば執らわれるほどに自利に走ってしまいます。

以前、ある住職の言葉に出会いました。

「俺が俺がの我を捨てて、御蔭おかげの下に生きる」という言葉です。

この言葉を紹介する住職の方は、池田智鏡さんという女性の方ですがご自身の壮絶な人生体験を経て尼になり、この言葉に出会いそれまでの生き方を見直し、全て一からやり直して住職になって人々へ心の支えとなるべく全国各地へ講演をなさっているそうです。

私自身はとても我の強い人間です。

我が強く、どうしても感謝がまだまだ土台になりきりません。やさしさだけでは自分に甘くなり、強いだけだと厳しくなるだけ、マジメになっては思いやりの実践が途切れ途切れと猛省の日々です。どうやったら心が寛く大きな人になれるのか、今でもよくわかっていません。

自分の力でやったと思う驕りや慢心の心を澄ませて有難いと感謝する慎み深く謙虚な真心は出たり消えたり、人生道場はいつも真剣勝負の連続です。自分がすごいのではなく御蔭様がすごいのだと思える日もあれば、我が強く出ればやはり逆の自分になってしまいます。一生懸命にやってみては、できた日もあればできない日もある、一進一退の中で呼吸するかのようにただ直向きに前に進んでいるだけです。

人は孤独を感じるのは二つあると言います。その一つは無視、無関心に自分を扱われたことへの怒り。もう一つはわがままが人を孤独にするといいます。謙虚に周りの御蔭様と思えるようになるには、この我の強さを心を磨きどう芯の強さに換えるかという心の修業が誰にしろ必要のなのかもしれません。

池田智鏡さんはこう言います、「助け合うこと。自分さえよければいいという考えは、自分も滅ぼし社会も滅ぼします」と。この自分の認識次第では周りへの回路を断ってしまい小さな自分に囚われてしまいます。「忘己利他」に生きるというのは、その強すぎる我を少し下げて己に克ち己を少しでも捧げることができるということでしょう。人道の極みはこの自然体、裸の心でいることのように私には思えます。

私自身、同じような体験をしているものの同じように乗り越えようとする人たちの苦しみを分かち合い許し合えても、それを具体的に乗り越える方法も工夫も今はまだ発明できていません。しかし、祈るような心で自他を一体に大切な人だからこそ真摯に一緒に乗り越えさせてほしいと心から思うのです。

機会とご縁は、必要なことであり人生には一切の無駄はないのだから裸の心で生きて子どもたちの模範になるような大人を目指していきたいと思います。面白い人生を愉快な仲間づくりを味わいながら思い出深く刻んでいきたいと思います。