先日、ある子どもに小学校でのこんな話を聞きました。
小学校ではなんでも一人でできることを重んじ、周りの心配をしていたら「他人のことはいいから自分のことをやりなさい」と先生に叱られるそうです。その子は周りをいつも心配して「大丈夫?」と声がけをしているのですがその際にいつも自分のことを先にやるようにと指導されるそうです。
ふと、疑問を感じることがあります。
確かに、自分のことを自分でできることを自立であると定義しているならば他人の心配をするよりも自分のことをやればいいということになります。同じ目標ならそれぞれが自分のことをやっていれば全体では引き上がるのでできると考えますが、それはみんなが同じことを目指し同じことを周りと同じようにするようなことがある場合に限りです。
しかしそんなことは実社会に出てどれくらい頻度があるでしょうか。実社會に出て人と働いてみたら、多様化した今の環境では誰かと同じことをしている仕事などというものはほとんどなくなっています。ひょっとすると昔は大量生産大量消費で工場のような仕事が多かったのかもしれませんが、今では仕事も時間と共に変化し、昔のままでやって温故知新しないものは時間と共に消失していきます。仕事が消失するのは必然ですからその同じ仕事に固執していたら自分もまた失業してしまいます。
人が学ぶということはこの温故知新を繰り返すということです。言い換えれば自分を毀すということです。新しいことに挑戦し、今までの自分を刷新していくこと。新しい価値観に触れては新しい自分に出会い続けて自分を変え続けていくことです。
深めていかなければならない理由もそこに在りますし、楽しくしていく理由もまたそこにあります。変化は創造であり、変化こそ学問の本質です。
もしも人は同じことを皆がするが最良とするなら今なら精密なロボットで構いません。人間にはそれぞれ無二の個性があり一人ひとりに与えられた天分といった得意、特性があるのだからそれを活かしあうことで複雑なことも成し遂げ偉大なこともできるようになるものです。そしてそのプロセスの中に人間社會の幸福もあるのです。
そのためには単に同じことを行う個をつくり上げるのではなく、異なることを協力する中で自分を発揮して周囲のために活躍できる人の方が本来の集団では役に立つように思います。必死に周りができることと同じことができるようになったとしても、それよりももっとできる人が現れたなら自分は役に立てなくなるというのでは、不安はなくなりませんし倖せもまた感じにくくなります。
人が安心するのは自分にしかできないことが、周囲の人たちのお役に立っていることの実感です。それは単に能力だけではなく、その人の”持ち味が活きている”ということです。そしてその持ち味は、周りのために働く倖せを知っている人たち、そしてその人の持ち味を温かく見守り協力を惜しまない仲間たちによって得られるように思えるのです。それは先述した自分のことをやりなさいということではなく、周りのために自分のできることをやりなさいと言う方がいいように思います。それは不安を解消するために頑張りなさいではなく、安心して思い切りやってみなさいという励ましに似ています。
情報化社会が成熟してきて働き方も生き方も、ものすごいスピードで変わり続ける現代において「変化を教える」というのは何よりも重要なことのように私には思います。それは一斉画一に同じことを教えてできる環境で人を創るのではなく、柔軟性を持ち、いつも周りの変化に対して協力し合える個性溢れる豊かな環境で人を創る方が今はいいように思います。
新しい生き方や新しい働き方を子どもたちが創造していくのを今の大人たちが邪魔しないようにしていくことが将来の日本を世界の中で役立てていく方法ではないかと私は思います。子どもたちのモデルになるような新しい生き甲斐と遣り甲斐を自分たちを温故知新していくことで創りあげていきたいと思います。