魂の故郷~玉響~

心が自然と一体になるとき、不思議な感覚を覚えるものです。自然の中には不思議な空気が存在します。光と風、水と土の香り、そして渾然一体となった音の響きがあります。耳を澄ませ何も思わずそのものであるかのように解けこんでいくとき、まるで存在そのものになったかのように満たされていくものです。

人々の心を救済したいと願をかけ、祈るように真理を求めては、現実の実践に回帰し続けていても時折、人の間を離れて静かに自然と一体になると魂が安らかになります。

生きているということは、修行させていただいているということであり、その修行の最中に出会うご縁に不思議な魂の邂逅があるものです。自分自身の存在を大切にしていくことは、人間の愛を分かち合い、助け合い、そして自然の真心と響き合い、許し合うことなのかもしれません。

田畑に出ては、他の生き物たちと共に呼吸し、太陽に包まれて暮らしている仕合わせを感じては有難い活かされている魂を養っている思いです。

こういう時は、弘法大師空海の一遍の詩を思い出します。私たちの魂の故郷はこの一遍の詩の中にこそ存在しているのかもしれません。

「谷川の水一杯で、朝はいのちをつなぎ
山霞を吸い込み、夕には英気を養う。
(山の住まいは)たれさがったツル草と細長い草の葉で充分
イバラの葉や杉の皮が敷いた上が、わたくしの寝床。
(晴れた日は)青空が恵みの天幕となって広がり
(雨の日は)水の精が白いとばりをつらねて自然をやさしくおおう。
(わたくしの住まいには)山鳥が時おりやって来て、歌をさえずり
山猿は(目の前で)軽やかにはねて、その見事な芸を披露する。
(季節が来れば)春の花や秋の菊が微笑みかけ
明け方の月や、朝の風は、わたくしのこころを清々しくさせる。
(この山中で)自分に具わる、からだと言葉と思考のすべてのはたらきが
清らかな”自然の道理”と一体になって存在していると知る。
今、香を焚き、ひとすじのけむりを見つめ
経(真理の言葉)を一口つぶやくと
わたくしのこころは、それだけのことで充たされる。
そこに無垢なる生き方の悟りがある。」(性霊集 密教21フォーラムより)

 

魂の玉響を楽しみながら、瑞々しい風土一体、大和尊魂のままで自然と一緒にいのちを養っていきたいと思います。

自然の理想

人間には苦しみというものが付きまといます。あまりにも苦しいとき、人は逃げたくなるものです。そして苦しみのことを悪いことのように思うことがあります。しかし苦しみには種類があるように思うのです。その苦しみの本質について少し深めてみたいと思います。

苦しみとはどこからくるか、それは現実が自分の思い通りではない時に人は苦しくなります。自分の思いがあり、自分の思い通りではない現実があればそれが思い通りにいかないことで苦しみが発生します。人間には自我欲があり、誰でも自分の思い通りになることを願うものです。それを執着ともいい、自分の思いに縛られているというものでもあります。

しかしよく考えてみると、その人になんらかの理想があり、それに向かって頑張っている中で現実がなかなかそれについてこない苦しみは果たして悪いことなのかということです。理想があるから苦しむ、その苦しみは現実が思い通りにならない苦しみです。その現実から逃げたくなったからと逃げてしまえば理想に近づいていくことはありません。現実が思い通りではなく苦しくても、理想に向かっているならばそれはどこか楽しい境地を得るように思うのです。なぜならその苦しみは理想に向かっている苦しみだと実感できるからです。

なぜ夢が必要なのかは、どうせならその思いを夢に昇華してその夢に向かう苦しみに転じて福にしていこうという意味もあるように思います。思い通りではない現実が、単なる自分の欲望だけになるのならその苦しみはとても気の毒なものです。しかしこうありたい、こう生きたいといった、あり方や生き方の方で苦しみを感じるのなら自分は理想に向かっているのだから苦しみもまた味わっていこう、苦しみもまた善いものにしていこう、苦しみに挑んで楽しもうという気持ちになっていくようにも思うのです。

人は理想の高さゆえに現実とのギャップにもがき苦しみますが、その苦しみは思い通りにいかない苦しみだからこそ、それに耐え忍んで思い通りではないことも受け容れて苦しみに向かって挑戦していけば、反対に自分の理想には確実に近づいていっていると感じるのです。そう考えてみると、苦しみが多ければ多いほどに理想に近づいていると思っていいのではないかと私には思えます。その時、苦しみは悪いものではないと感じられるように思います。

人に苦しみがあるのはきっとその心に思いやる優しい心、平和を願う助け合いの心が産まれながらに備わっているからのように思います。幸せというものは、苦しみの中にある楽しみに出会うことかもしれません。私たちはどこまでいっても自然の一部でしかないのだから、それぞれが自然の理想にむかって精進していくのが宿命のようにも思います。

自然の理想に向かって苦しむことを楽しみながらいのちを輝かせて子どもに未来を譲っていきたいと思います。

やりたいこと~おかげさまで~

先日、ある人と一緒にやりたいことを考える中で思うことがありました。やりたいことをやるというものの中には、どこか自分勝手な傲慢な我が強く出ているようにも思います。自分が思い通りにしたいという欲求は、次第にやりたいやりたくないを決めてはそのうちやりたくないことはしたくないと我儘になったりします。

本来、やりたいかどうかよりも全ての出来事やご縁、役割はさせていただく中で発生していくものです。その役割が尊いと感謝できるから、はじめて「やりたい」という真心が発露するわけであってさせていただけることに仕合せを感じる心があってこそ真のやりたいに出会うのではないかと思うのです。

例えば、誰かが困っている、仲間が困っている、これをやることが世の中の人たちの救いになる、もしくはこの仕事をやることで周りの夢になり大きな貢献になると思うほどにそれをはじめて心は「やりたい」と思えるように思います。やりたいことから探す前に、させていただける感謝に出会うことで自ずからやりたいことに出会うように私は思うのです。

逆説かもしれませんが、やりたいことから探している人は本当にやりたいことには出会えないように思います。むしろ、なんでも自分にさせていただけるものは選ばずにさせていただきますと謙虚に生きる人は常に自分の思っている以上にやりたいことをさせていただけることに感謝してよりやりたいことをはっきりさせているように思うのです。

やりたいというのは、させていただける感謝を先にそのあとに何がやりたいのかを考えるという順番さえ守れば、自ずから素直になることができ、やりたいことをできている仕合せ、自己実現の充実感も味わえるのでしょう。

させていただける感謝は、積極的に御蔭様でと取り組む真心の実践で現実の仕合せと結ばれていくように思います。不平不満からやりたいとかやりたくないとか文句を言う前に、本来のあるべき自分を取り戻してから本物のやりたいことに出会っていければ人は仕合せです。やりたいことをみんなができる優しい社會、仕合せな社會は、おかげさまでの心ではじめてできると私は思います。

以前、父から紹介してもらった下記の詩を忘れないようにしていきたいと思います。

『おかげさまで』

夏がくると、冬がいいという  冬になると、夏がいいという

太ると痩せたいという、痩せると太りたいという

忙しいと暇になりたいといい 暇になると忙しい方がいいという

自分に都合のいい人は善い人だと褒め

自分に都合が悪くなると、悪い人だと貶す

借りた傘も雨があがれば邪魔になる

金を持てば 古びた女房が邪魔になる 世帯を持てば 親さえも邪魔になる

衣食住は昔に比べりゃ天国だが

上を見て不平不満に明け暮れ 隣を見て愚痴ばかり

どうして自分を見つめないのか 静かに考えてみるがよい

いったい自分とは何なのか 親のおかげ、先生のおかげ、

世間さまのおかげのかたまりが 自分ではないのか

つまらぬ自我妄執を捨てて 得手勝手を慎んだら

世の中はきっと明るくなるだろう

おれが、おれがを捨てて

おかげさまで、おかげさまでと暮らしたい

真の最強~じゃんけんの法理~

自然界は、ありとあらゆるものがそれぞれの持ち味を活かして他と共生し生きています。人間はよくスーパー○○というように、完璧を求めては最強であることを目指したりします。何でも自分でできるようになろうとしては完璧と求めて最強になった時には一人ぼっちになったでは、その目的が倖せから遠ざかってしまうかもしれません。

例えば自然界には、必ず勝者と敗者という関係が存在します。必ず天敵が発生し、その天敵に負けることでバランスを維持していきます。それはまるで拳遊びの「じゃんけん」のようなものです。

この「じゃんけん」は、近代になってから発明されたそうですが、拳を石と鋏と紙の三種類を見立てて行う遊びです。グー・チョキ・パーでその時出したもので勝った負けたを楽しむものですが、当然ですがグーとチョキのみならば常にチョキは負けてしまいグーは勝ちます。相対のものだけでは常に勝者、常に敗者になります。もしも全てに勝つような絶対的勝者を作ってみたとしたらどうでしょうか、それは結局は勝者と全ての敗者のみの関係になるでしょう。絶対的勝者は今の人間(自我)が目指している究極の姿のようにもみえ、協力(助け合い)とはまるで反対の方に進んでいるようにも感じます。

本来、自然は「協力」(助け合い)をするように多様化していくものです。一つのものだけになれば、生き物たちは助け合えなくなるから多様化します。そこにはこの「じゃんけん」の理のような法理がハタラキ、御互いの持ち味を活かしあうことである時はグーが頑張り、ある時はチョキで対応し、またある時はパーで乗り越えるように、様々な者たちがお互いの徳性を活かしあってこの地球上を共に生き抜いてきたとも言えます。

自分か相手かになれば、敵味方になりますが本来の自然はみんなが味方だという考え方に根差しているように私には思うのです。それは昆虫だけではなく、樹木、または動物たちにいたっても御互いが「じゃんけん」しながら遊び、この時は何でいこうかと互いの持ち味を認め合って伸ばしあっていくのです。

人間が最強であると錯覚すれば、もしも天変地異で自然界が破綻するとき私たちは本当に最強だとその時でも思えるのでしょうか?宇宙にいけば、結局は星々に今の地球の生物たちを選択して持っていくしかなく、しかしそれでも適応の変化に耐えられず必死に種類や数を増やそうとするはずです。それは自明するはずなのに、なぜ今のように絶滅していくものをそのままにするのかは人類の滅亡を早める気がしてなりません。

本来の多様性は、自他を丸ごと認め持ち味を活かし、その持ち味によって助け合う時に最大限に効果を発揮します。こんな時は誰、こんな時は何と、まるでじゃんけんのようにみんなが役割を出し合っていけば、本来の「最強」の真実が確信できるように思います。

組織の本来の「強み」とは一体何か、その強みを活かすとは一体何か、そして「弱み」とは本当は何か、自然界から照らしてみて本来の姿を確認していきたいと思います。自然は全てを物語りますが、じゃんけんを産み出した発明者のような技術を開発し、子どもたちにその智慧と工夫を譲っていきたいと思います。

心の実践~誤魔化さない~

自分自身であるというのは、自分を誤魔化さないということでもあります。周りに合わせて自分をつくり自分の評価が下がらないようにいつも誤魔化していたらそのうち本当の自分のことも分からなくなってしまうものです。

例えば、最初から今の自分のようになったわけではありません。今の自分のようになったのは何かの体験や経験から今のようになっています。本来、幼児期の子ども達は自然の姿に近いものでそれぞれが自分のままあるがままが出ています。しかしそのうちに何らかの教育を施され、気が付いたら何かに合わせている自分になっているものです。

何に合わせているのかはその人の先入観と思い込みですから、合わせているものが取り払わられない限りいつまでも刷り込まれたものは残るように思います。もしもそれに気づいたならば如何に自分を自分で誤魔化さないかということが大事であろうと思います。

誤魔化すという字の語源は、二通りの説があると言います。ひとつは、祈祷の際に焚く「護摩(ごま)」に、「紛らかす(まぎらかす)」などと同じ、接尾語「かす」が付き、ごまかすになったとする説。これは弘法大師空海の護摩の灰と偽り、ただの灰を売る詐欺がいたため、その詐欺を「護摩の灰」、その行為を「ごまかす」と言ったことからであり、もうひとつは、「胡麻菓子(ごまかし)」を語源とする説で「胡麻菓子」とは、江戸時代の「胡麻胴乱(ごまどうらん)」という菓子のことで、中が空洞になっているため、見掛け倒しのたとえに用いられたことによるそうです。

どちらにしても、正直ではないという意味です。自分の都合やとはいえを持ち出しては、心のままであることを我慢する。心が思ったことに正直であるよりも、世間の評価や周りの目を気にしては自分を出さないということです。

こうやっていつまでも誤魔化していると、そのうち誤魔化した方が自分になり、本来の自分が何だったのかすら忘れてしまうことになります。だからこそ、自分が心で思ったことを自らが実践していくということ。誤魔化さず、正直に自分の信じたように信じて行じていくということが本来の自分を取り戻す方法のようにも思います。

自分が心で思ったことを如何に行動に移したか。それはやってみたいと思ったことを周りに伝えて、思い切ってやってみた質量に比例するのかもしれません。周りに合わせて我慢してきた分だけ、自分自身を出せなくて苦しそうな人たちをたくさん見かけます。

刷り込みや先入観、常識に囚われて希望を持てなくなってしまう人もいます。子ども達、あの幼児期にはそんな子どもはほとんどいませんから後天的に沁みついていくのでしょう。その心の沁みつきに負けないように、自分の心の赴くままに行動してもいいと見守る安心できる環境があることでその人もまた救われるかもしれません。最初からあった自由をどう取り戻すのか、周囲の大人たちの目覚めに懸っているようにも思います。

心で思うことをカタチにしていくことは自分の心を解放していくことなのかもしれません。子どもたちのように心を解放し自分を開放していくことが、思いやりにつながり、絆を深め、みんなを安心させ、みんなのお手本になっていくのかもしれません。

日々の心の実践を優先していきたいと思います。

自立の発露

先日、カムイロケットの植松努さんの講演を拝聴する機会がありました。北海道に訪問してからもう4年の歳月が流れ、あの頃と変わらずに直向きに子どもたちのために「どうせ無理」という言葉をなくそうと行動している様子に勇気を頂きました。

私たちの会社も「とはいえ」をなくそうと、大人の都合をどれだけ外せるかと様々な実践を積み上げていっていますがその道は険しくまた遠大です。しかし、子どもや未来を信じるのは今の自分の実践次第ですから怠らず努めていくしかありません。

世の中の閉塞感、いじめも虐待、そして自殺の問題も本来は一人一人が自分らしく他を邪魔しなくなれば自ずからそれらは次第に消失していくものだと私は思います。数々の刷り込みがこの世の中には蔓延りますから自らで考えて日々に入ってくる刷り込みを自らの実践でかき消していくしかないようにも思います。

人間には自我がありますから、気が付けば自我にとってかわられていることにも気づかないものです。素直な心で物事を省察しては、全てから学ぶ謙虚な心で感謝のままに生きるという自然な生き方ができるには数々の問題を一つ一つ片づけていくしかないようにも思います。

自分のやりたいことをやるといっても、そのやりたいに翻弄して迷っている人もいますが本来は初心です。初心に対して迷わないというのは、楽をせずに苦しくても愉しい方を選んでいく小さな勇気なのかもしれません。

印象深かった言葉は、「夢は大好きなこと、仕事は社會の役に立つこと」という言葉です。大好きなことをやっていると次第に経験や仲間が増えてきて、それが仕事になるかもしれないとありました。思い返せば、どちらが先かは思い出しもしませんが世の中を憂いつつ自分の持ち味と得意分野を伸ばしていたら今の自分に出会っていました。

誰かの評価を求めずに、ただ自分が信じたものを遣り続けるから今に出会っています。数々の貴重な経験は楽しいだけではなくほとんどが辛酸をなめるような苦しいものもありました。仲間にも同志にも出会い、自分がもっとも理想としていた仕事もさせていただけるようになりました。それまでの道のりはただ必死なだけでしたが、今思い返せば大好きなことを社會の役に立つようにしただけです。

言い換えれば、自分にしかできないことで誰かの役に立とうとしたということです。自分らしさというものは、その心の発露から始まるのかもしれません。小さな自己満足で仕事をしては一生を終えるような雇われるための生き方ではなく、自分の一生を如何に何のために創造するかという生き方、つまりは自分の初心や信念を貫く生き方を選択するかどうかということを常に試練にして自らを磨こうとする人生を歩もうということです。

人は初心や信念があるから自分を磨いていくことができます。自分の目指した生き方に沿って行こうとする分、日々はその姿勢を試してきます。本当に出し切ったのか、本当に遣りきったのかと、常に当たり前ではない日々は語り掛けてきます。その時、本気であること決心があること、覚悟をしているかが自問されます。

夢を得るには楽はなく、楽をしないから夢は逃げない。

苦中楽有の心境とは、夢の中という意味でしょう。すると、苦こそが夢であり、その苦に挑む好奇心が愉しんでいるということかもしれません。

ものわかりのいい人間になりロボットにされてしまっては、安定や成功ばかりと求めては失敗や罰を恐れてか弱い心ばかりが育ってしまうかもしれません。逞しい自然の姿、強くて優しい心はやったことがないことに挑戦していくことで育っていくように思います。

世界は今、やったことがないことを遣りたがる人、最後まで諦めない人、創意工夫ができる人がどの国でも求められています。それが希望を与えてくれる人だからです。夢を持つというのは、そういう自分らしく持ち味を発揮して存分に自分を遣りきっていく人になるということです。

子ども達が自分自身であることが肯定され、自分らしくいきていくことが如何に将来の愉しさや倖せにつながっているのかを実践の背中で見守ることができるなら未来は開けていくように思います。刷り込みの毒など気にしないくらいに、自分自身を発掘し、発明し、発達し、発展し、そして発揮していきたいと思います。

自然の姿~自分らしさ~

人間は生まれたときは自然であっても、時間が経てば次第にその自然から離れていくものです。例えば、世の中を見渡せば分かるように自然界の生き物たちが自然と共生し暮らすのに対し、私たちは都市化された世界の中で様々なシステム化の中で暮らしていきます。

自分をシステムに合わせていくことで、今の都市化された世界に順応していくのです。その中で様々な刷り込みや知識を身に着けては、この今の社会で適応できる人間になっていきます。

自然農を実践していると、何が野生で何が人工であるかはすぐに自明します。

本来の姿がどちらで、人工的であるのがどちらかは一目瞭然です。しかし、実際の世の中では人工的である方がフツウであるといい、自然であることを障害であるとさえ言ったりします。

自分自身がどういうものであったかも忘れてしまうくらいに、周りに合わせていることを当然に思ってしまうと自分らしさなどというものも分からなくなっていくのかもしれません。

自分らしさというものは、自然の姿です。

その人のままでその人のやりたいことを保障され、その人だけではなくその人も含めた自他を尊重している関係のことです。こうでなければならないや、こうあらねばらない、当然こうあるべきだという考え方の中には、そう教え込んだ何かがあったからそう思うようになります。

教え込まれていくのは自分で考えなくなるからです。自分で本当は何かと考え続けているのなら、教え込まれたものを鵜呑みにしなくてもよくなります。きっとこうだと思い込まされたものがあること、これは当然こうだという常識、自分自身はふつうであるはずという認識こそが自分が考えなくなる原因になっているのかもしれません。

自分で考える力というのは何か、それは私の言葉では野生に戻るということです。

動物園で飼育された動物が如何に野生に戻るのか、それは大変なことのように思います。それまで餌を与えられ、環境を用意され、ぬくぬくとなんでもある中で誰かによって何かを教え込まれたのですから、いきなり自然にいくと太刀打ちできないと思うかもしれません。

しかし本来は、生まれた時は自然であり野生だったのだから自ずから自分らしく自然に入っていくこともできるように思います。自分らしいというのは、あるがままの自分を認め、あるがままの他人を認めることです。押し付け合って創りあげた架空の常識は、自分の思い通りにしたいという欲の現れになるかもしれません。

それぞれの異なる個性を発掘し、そしてそれぞれの徳性を発揮する。

これらは「認める」ことで実現すると私は思います。そうすれば私たち日本人だけではなく人類は新たな可能性を常に開き続けることができるように思います。そして自由や平和もまたそこにあるように思います。

あるがままのその人でいいと願うなら自分があるがままの自分であることに自信を持つことのように思います。昨日は、相変わらずに自分を遣りきっている同志の後姿を拝見して勇気とやる気が新たに滾々と湧いてきました。ご縁の有難いのは、気付いた同志たちが自分の居場所でそれぞれに向き合って自ら使命に抗わずに徳を磨いている姿を拝見できることです。私自身も子どもたちに、自分らしい背中が見せられるようにさらにオープンに素直に邁進していきたいと思います。

ありがとうございました。

常識という刷り込み

世の中には「常識」というものがあります。これは世間一般としてはこういうものだと自分が思い込んでいる制限の世界のことです。または自分が見聞きした中で定めた自分のルールと言ってもいいかもしれません。辞書には、健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別と言います。

これをアルバート・アインシュタインは、『常識とは18才までに積み上げられた先入観の堆積物にすぎない』と言います。

よく学校から社会人になって、最初の3年間に今まで学校で学んだことを御破算にしてやり直しなさいと新人教育する必要があるのもいつまでもこの常識に縛られて本当の社會人になれないから学び直しをしてもらうのです。学校の常識は世間の非常識とも言いますから、社會貢献や仕事の意義、考え方を見直してもらうために研修したりするのでしょう。

その人が持つ先入観の堆積物とは、それまでにその人が何を知識として思い込んできたか、何が刷り込みとして持っているかというその人の知識の副産物のことです。常識を破るというのはその知識で彩られた世界を勇気を出して毀してみる、恐怖があっても敢えて取り組んでみて新しい自分に体験を通して変わっていくことでその常識は新しいものに刷新されていきます。

しかしよく考えて観れば、18歳までに身に着けた刷り込みとは何でしょうか。そしてよく自分は常識的(普通)だという人の言うその常識とは何でしょうか。

それは世間一般の先入観に一番長けている、世間一般の常識に一番執着している、言い換えれば自分を合わせるのが得意だということにもなるように思います。自分を世間一般のものに合わせて造りあげてきて、その自分になりきっていて、その自分を維持していくのができる人になっているともいえます。刷り込みを持って他を刷り込んでいくのが教育だとしたら、誰かによってそういうものだと教え込まれて自分でその本質や答えを考えなくなればもうそれは先入観=常識そのものの人になっているということです。少し考えればそんなのは果たして自分そのものであるのかということに疑問が湧くはずです。

本来、人間は思い込みを取っ払ってあるがままに物事を素直に観たら本質や真理はその時々で変化します。百通りの真理があり、千通りの本質があります。それがその人らしいその人の観方です。それをこうでなければならないと、もっとも正しいと思い込んだルールを自分の中で頑固に維持し、それを他人に押し付けて周りが間違っていると矢印を他人に向けていたら気が付いたら自分が一番その思い込みや先入観に囚われてしまうかもしれません。

人は皆、誰しもその人らしさを持っていることで周りの勇気になります。自分らしさというのは、自分がオープンでフラット、何ものにも執らわれずあるがままに物事が観得る常識に囚われない自分でいることです。囚われない自分、それを自信といってもいいかもしれません。

だからこそ、まず自分自身の常識を疑ってあまりこうでなければならないという先入観に縛られないようにすることが自分自身であることや、自分らしい自分を信じる実践になっていくように思います。

世間の常識は常にその人らしさを奪っていきます。自分が勝手に思い込んだものを誰かを攻撃し否定するためにつかってはどうせ無理だと他人の自信まで奪うというのは、その人の常識の問題だということに気づいた方がいいかもしれません。むしろ、その刷り込みを使って人を非難し否定し攻撃するその心の態度が自分らしさを潰していることに気づく必要があるのです。

きっとこうだと自分勝手に思い込む前に、素直な心で新境地や新しい自分との出会い、未知との邂逅やご縁の有難さを心で求め遣りきってみたら見たことのない素のままの世界に出会えるかもしれません。

自分の殻とはこの自分の常識や偏見、先入観の事です。

その自分の殻を破っていく面白さが、人生の醍醐味であり愉しさでしょう。そういう人に出会っていくことや、そういう人に学んでいくこと、そういう人になっていくことではじめて自分自身に出会えると思います。またそういう人が語る言葉には大きな夢があります。できないのではないかと思うことに挑戦した仲間の行動から、勇気と自信を沢山いただけるのも、その刷り込みに真っ向から挑んでくれた面白さ、自分らしさに気づかせてくれたからかもしれません。

久しぶりにある人の講演を聴きにいきますが、あの頃よりももっと面白い自分らしい自分になっているか、偏見のコレクションをどれくらい捨てきったか、自分自身、色々と確かめたいと思います。

 

 

成長の本質~自然に伸びる素直な心~

松下幸之助さんの遺した言葉の中に、『成功者になろうとするのではなく、価値のある人間になろうとしなさい』があります。価値のある人間になるというのは、その人らしい人になるということです。そしてその人の価値を高めるために「仕事」はあります。仕事は人生のリハビリであるということを言っていた人もいましたが、確かに仕事がその人の役割を育ててくれますから自分の生き方を素直にしていくリハビリになるように思います。

その「仕事」に対して松下幸之助さんはこう言います。

『仕事をするに当たって、まず心を磨くというか、ものの考え方を成長させる必要があります。』

これは自分の考え方を、その心のスタンスを決めるということであろうと思います。仕事に対してどのような意識を持っているか、自分の持つ仕事に対しての信念といってもいいのかもしれません。つまりものの考え方を決めなさいと言います。その著書「道をひらく」(PHP)の中でこう解釈されています。

『どんな仕事でも、それが世の中に必要なればこそ成り立つので、世の中の人びとが求めているものでなければ、その仕事は成り立つものではない。人々が手軽に街で靴を磨きたいと思えばこそ、靴磨きの商売も成り立つので、さもなければ靴磨きの仕事は生まれもしないだろう。だから、自分の仕事は、自分がやっている自分の仕事だと思うのはとんでもないことで、ほんとうは世の中にやらせてもらっている世の中の仕事なのである。ここに仕事の意義がある。自分の仕事をああもしたい、こうもしたいと思うのは、その人に熱意があればこそで、まことに結構なことだが、自分の仕事は世の中の仕事であるということを忘れたら、それはとらわれた野心となり小さな自己満足となる。仕事が伸びるか伸びないかは、世の中がきめてくれる。世の中の求めのままに、自然に自分の仕事を伸ばしてゆけばよい。』

そしてこう締めくくります。

『大切なことは、世の中にやらせてもらっているこの仕事を、誠実に謙虚に、そして熱心にやることである。世の中の求めに、精いっぱいこたえることである。お互いに自分の仕事の意義を忘れたくないものである。』

この「仕事」のスタンスが、心を磨き、ものを成長させた考え方ということなのでしょう。つまり世の中(周りの方々)からやらせてもらっているという意識に変わっているというのです。

自分の仕事の意義というものは、意識していようがしていまいがその仕事に出てくるものです。その人がどのような仕事をするのかを観ては周りの人はその人を判断していきます、その仕事に懸けるその人の意識は確実に仕事ににじみ出て顕れます。だからこそ、謙虚に誠実に常に周りの求めに自分らしく精いっぱいこたえることがお互いに一緒に仕事をしていく価値であり意義になると私は思います。

人は考え方が成長することが自分が変わることであり、そうやって自分の生き方のスタンスの質が高まるからこそ自ずから結果もまたついてくるように思います。

自分でやりたいことを決める前に、与えられた仕事を真摯に真剣に取り組ませていただき、周りから信頼されるような価値のある人間になることが自然に自分を伸ばしていくことになるように思います。

自然に伸ばすとは素直な心です。素直ではない心の時、人は必ず行き詰ります。できないことを求めてはできることをやらないのでは、結局はその人の価値観を周りに強要するだけで周りにとって価値のある自分には近づかないように思います。

こうでなければならないという成功者のイメージを持つよりももっと価値のある人間になろうとする素直な心を持つ方が仕事も自分も「自然に伸ばしていく」ということなのでしょう。素直な心を持ったなら、誰のせいにもせずに言い訳もせずに自分に矢印を向けて自分の価値を自分で決めず周りにとっての価値に変えていけるように思います。自分自身にそういう素直な心が土台に入っているか、常に確認していくことが成長(伸びる)を確かめることにもなると思います。

子どもたちがだれもが自分らしい自分で、周りの役に立つ価値のある人間であると実感できるように常に求められたことにこたえられる自然に伸びる素直な心で変化し続け、精進していきたいと思います。

 

相乗効果(シナジー)の価値

相乗効果(シナジー)というものがあります。これは二つ以上の要因が同時に働いて、個々の要因がもたらす以上の結果を生じることを言います。

全ての出来事を振り返ると、効果というのは常に一つ以上の要因が重なり合って発揮されているように思います。人々がもしも大きな目的に挑戦するとき、誰にも頼らずに自分だけできるものなど存在しないと諦めることができるなら、同時に自分が相乗効果のためにベストを盡せばいいと覚悟を決められますが刷り込みが深く個別の成果は意識していても、相乗効果に対しては意識がいかないものです。

「7つの習慣」の著書、スティーブン・R・コヴィー氏は、相乗効果についてこう語ります。

「相乗効果は人生において最も崇高な活動である。残りの習慣すべてが身についているかどうかのテストであり、またその目的である」

つまり自分の習慣は、自分自身の実践がどれだけ全体の効果を発揮させたかをみることだと言います。自分だけは自分らしい実践を怠っても問題ないだろうという意識というのは、相乗効果の真価に気づいていないのかもしれません。

例えば、何かの仕事は一人でやった方が早いと思っている人がいます。もちろんそういう仕事もありますが、実際は自分の思い通りに進められない、他人と進めるのは面倒だといっては協力したくないから自分だけで全部処理していこうとします。しかしその時、肝心な視点が外れていることに気づきます。

それが相乗効果(シナジー)の価値です。

一人では相乗効果(シナジー)は生まれず、二人以上でそれぞれの個性を発揮して目的に対して助け合い協力し一緒に何かを行う時、自分の想像を超えるような効果を目のあたりにするものです。

自分だけではできなかったことが、誰かの協力によってできるという実感。それは例えば、離れていても心を寄せてくれる信頼できる人の見守りを感じているときや、仲間が勇気を出して諦めずに挑戦する背中を感じた時、そういう無形のものでさえ自分のモチベーションを高めてくれたり、信じる力を集めてくれたりと様々な相乗効果(シナジー)を発揮してくれるのです。協力の楽しみや協力の有難さ、協力の真価を知れば如何に相乗効果が素晴らしいかに気づけます。

そしてそれは常に「一緒」であること、助け合おうとする心、それぞれが自分の決めた実践(習慣)をそれぞれが確実に守ることで役割を果たす時に相乗効果(シナジー)は高潮するように思うのです。

仲間がいるということや、チームで取り組むということは、一見、みんなで同じことをしていることのように勘違いしている人がいます。しかし本来は、一人ひとりみんながそれぞれの個性を存分に発揮してそれぞれが全体のためにできることを全身全霊で実践するのを怠らない時にこそ期待以上の成果を全体に及ぼしているのです。

常に視点は自分だけのことを考えるのではなく、自分の実践がどれだけみんなの力になっているか、自分の習慣がどれだけみんなの効果につながっているのかの自覚を大切にして、皆の守りたい理念や優先したい目的に協力していこうとすることが自分の全体の中での役割を知る近道なのかもしれません。

同じことをするのは一緒ではなく、バラバラでも一緒であることはあるのです。それぞれが自分らしく協力する実践を一緒にしていればそれはバラバラでも一心同体です。一心同体になったとき、相乗効果(シナジー)は奇跡を呼び込み、一人ひとりの役割を明確にし、人と人の絆、そして人間であることの幸せを感じられます。

子ども達の未来のためにも、一人の力云々よりも、相乗効果(シナジー)の一員であることに誇りが持てるような社會を実践人になって創造していきたいと思います。