負けない強さの本質~信託感謝~

先日、ブログのコメントで「負けない強さ」を教えていただきました。

『「負けずに生きていく強さ」が必要です。この「負けない強さ」というものも重要な強さではないかと思います。「打たれ強い」「辛抱強い」「我慢強い」「粘り強い」「根気強い」という言葉もありますが、何があっても「志を貫く強さ」が欲しいものです。仲間と励まし合って「倒れても倒れてもまた立ち上がる」そんな「何度でも戦える強さ」を持ちたいと思います。』

とありました。まさにこれらはチーム戦で使われる「仲間と励まし合う」言葉で、一人は皆のために、皆は一人のためにと協力しているときにこそ人は真の強さを持つのではないかと私は思います。

自分に自信があるとかないとか、自分は強いとか弱いとか、それぞれ個人のそれは比較対象の中で自分で認識しているものです。誰と比べて自信があるのか、誰と比べて勝負するのか、それはその人の我と評価から出ていることがほとんどです。

先日、ある仕事をする中で仲間の有難さと尊敬を感じた一面があります。

その人は、お客様のためにはどうやればもっとも善いかだけの判断で行動するのです。私のこともなんの躊躇いもなく活用し、お客様の倖せを信じて最善を盡すのです。自分の力があるとかないとかは別に関係がなく、常にゼロベースで仲間を信頼して新しいことに挑戦するのです。

そのエネルギーは、新しいアイデアや創造性、そして応援や勇気を仲間にもたらします。私自身もその行動する背中を見守りながら、自分が何をなすべきかが自明するのです。自分の強さなどは関係がなく、理想や理念のために仲間を信頼して大切な”みんなの思い”を守るのです。その唯一無二の仲間と一緒に取り組む倖せ、その最幸のチームとの一期一会、まさにこれが「負けない強さ」の本質ではないかと思うのです。

自分だけでやっていると思うのではなく、仲間がそこまでつないでくれたネガイがあることや、仲間が自分を信じて助けてくれたオモイがあること、仲間がいるというアンシンや、仲間とともに歩んでいるんだというココロがあるからこそ真の強さが持てるのです。

この真の強さがないものは、何かがあるとすぐに勝負の前に力尽きてしまいます。本来の勝ちたいというものも、何があっても勝ちたいという貪欲さからくるものです。しかしこれも仲間と守りたいものがあるから託されて負けるわけにはいかないから勝ちたいのです。もちろん自分一人、己に打ち克つ孤独も必要ですが、理念や目標を同じくする仲間があるからこそ信頼ができます。仲間との絆は甘えや弱さと勘違いされますが、信じて任されたという責任、その信託は厳しいものなのです。

背景に持っているものや背中に背負っているものが大きければ大きいほどにその人は負けるわけにはいきません。そして対するものが大きければ大きいほど自分だけでは乗り越えられないものです、つまりなにがなんでもと必死です。だからこそ人類はみんなで手をつなぎ、心を一つにして「仲間の信頼」という絆によって力を繋ぎ合せて一緒に負けない強さを持ったのではないかと思います。

仲間を信頼するものは逆境をバネにさらに強くなり成長して負けくなってきます。疑いこそが自分だけの力に固執し、信じることで我執を手放せます。信を中心にするチームは、いつも愛に溢れます。任せた、託した、命じた、これらの運命共同体の信託はチームの絆の証でもあり結束です。

人間はいつも極限の中で新しい自分に出会い今の自分を刷新していきます。その時に仲間の信託と仲間への感謝が基盤にあることは自分を一回りも二回りも偉大に成長させるうえで何よりも重要なことではないかと思うのです。結束なく戦うものはとても弱いように思います、なぜなら「結束」こそが人類が手にした自然の叡智であり力の源だからです。

この「信託感謝の強さ」を御縁を活かし丸ごと磨いていきたいと思います。

 

先祖の偉大さ~恩沢洪大~

昨日、祖父の13回忌の法事を行う機会がありました。亡くなってからも何回も夢に出てきてくれていますから、あまり遠くにいった感じがせずに思い出せば鮮明に脳裏に祖父の姿が現れます。

親族親類が集まり、生前の思い出話をしましたがその人柄が話の中でにじみ出てきます。厳しくても愛情深かった人の生き方が、今の自分たちの価値観に大きな影響を与えたことを知ると、自分自身もいつの日か亡くなるまでにどれだけの人たちの人生に影響を与えるのだろうかと思い直します。

日々というものは、何気なく過ぎ去っていきますが確実に死に近づいていきます。ご縁があった方々と共に歩んだ記憶が今の自分を与えてくださっているのです。いつまでも記憶に残っているからこそ、今を大事に一期一会であることを忘れないでいたいものです。

またその話の中で、祖父の兄弟が戦死した話がありました。一人はフィリピン沖で、またもう一人はガダルカタル島で戦死しました。とても優秀な兄弟だったようで、祖父もなぜ優秀ではない自分が生き残ったのかと自分を責めていたそうです。

戦後、今の私たちの世代は戦争を体験していません。最近の報道をみていたら、世界情勢はますます危険な様相を見せています。戦死した方々が将来、どれだけ平和を望み、今のような平和を手にしたかった、私たちは忘れてしまってはならないと思います。

今の私たちが生きているのは、かつてここまで希望といのちをつないでくださった方々の存在があるからです。つまり先人たちは私たちの先祖たちとも言えます。法事を通して実感するのは、今の私たちがあるのは様々な体験があって少しでも子どもたちのために善くしようと生きた人たちの恩沢洪大があってのことです。

例えば自分の先祖を遡れば、父母が2人、祖父母が4人、曾祖父母は8人とその上の代は16人となります。さらに遡れば10代前は1024人になり、13代前は8192人、14代前は1万6384人と1万を超えます。そして17代前は13万1072人と、10万人を超え20代前になると、104万8576人になります。また一人の人生約50年と仮定して28代目で1400年前、そうすると1億人を超える先祖が関わっていることになります。

これは決して他人事ではなく、自分の今の生があるのは自分を育てて今につないでくださった多くのご縁があった方々の数なのです。先祖のことを思う時、どれだけの人たちが関わってくださって今の自分の倖せがあるのかを感じます。この先の子孫のことを思えば、どんな世の中を自分の代で実現しどんな生き方を自分の代で創るのかを思うのです。

自分を思えば一度しかない人生ではありますが、しかし同時にこの人生は決して自分だけのものではありません。私たちも死を迎え先祖になる日が来るのです。本来の自分の人生とは何か、法事を通して先祖を思い考え直す一日になりました。子どもたちにあの代があったから今の平和があると言われるような生き方を実践していきたいと思います。

真の強さ~人類の目的~

先日、ある人と話をする中で強くなることについて考える機会がありました。

強さについての定義はそれぞれで異なります。それはヒーロー願望などもそうですが、そのヒーロー像もそれぞれです。例えばドラゴンボールのように、常に自分ばかりを強くして自分をバージョンアップして強化していくヒーロー像もあれば、ワンピースのように仲間たちと一緒に強化していくというヒーロー像もあります。

先日、ドラゴンボールで強い敵と戦うときに、主人公の孫悟空は仲間と一緒に戦うよりも一人で戦いたいからともっと強くなりたいといって一人で出ていきました。そしてライバルのベジータもそれでいいとし、自分も一人でやりたいと言いました。この物語は個人の最強を目指しているのです。それに対してワンピースの強さは全く異なります。ワンピースは自分たちの生き方とその絆や夢を生きるファミリーを守りたいわけで最強を目指しているのではなく、仲間たちとの物語そのものを大切にしているのです。

集団や組織で圧倒的な主人公でいたい場合はドラゴンボールを目指すのでしょうが、それぞれが主人公でいる場合はワンピースではないかとも思います。目指す姿も異なりますから、自分が好きな方を選べばいいのですが目的が異なる場合は別の番組を選択してその人がそれぞれに強さと求めればいいのではないかと思います。

しかしこの強さという言葉は、昔から”我が強い”という言い方もあるくらいですから強いというのは我がとても関係しますから真の強さがある人は弱さも強さも受け容れる人になっているのですからきっと無我の境地ということなのでしょう。人間は何のための強さであるのかを省みるとき、誰かのためにの志が偉大であればあるほどに真の強さに近づいていくように私は思います。

私の思う本当の強さとは仲間との信頼です。

なぜならそれが人間の意義だからです。もちろん自分に克つことは自分自身との向き合いですが、社會で克つためには仲間たちとの協働が必要です。人間は社會をつくる生き物ですし、人類は如何にいのちを次世代へと存続していくかが最大の使命ですから本質的には信頼をカタチにして多様化していくことでそれを実現してきたのでしょう。

最後に私が子ども達の未来を思う時、とても示唆がある言葉があります。この言葉がきっとその人らしさを引き出し、子どもたちが安心して自分らしくいきていく道にたどり着くのではないかと思います。これは若い頃、私の人生の価値観を変えた「7つの習慣」の著者、スティーブン・コヴィーが語ったものです。

「強さは、似た者同士の中ではなく、多様性の中にこそ存在する。」

志に従って理念をカタチにして、子どもたちに勇気を与える存在のままでいたいと思います。人類の成熟した未来にあるものが何か、それを見守り続けていきたいと思います。

かけがえのない存在~労わり労う~

今の時代はよく無理をしてからだを壊す人が多いと言います。無理に無理を重ねては気が付いたら大変なほど酷くなっているでは、そこから回復治癒するのは長い時間がかかります。本来は、健康を維持するために未病といって自分の状態を早めに察知して病気を未然に防ぐようにできればいいのですが自分のからだを労われないことでなかなかそれに気づけないようにも思います。

この「自分のからだを労わる」というのは、とても大切なことで一番身近な自分との付き合い方が他人への付き合い方に出てしまうようにも思います。この自分を労わるとは何か、それを少し深めてみたいと思います。

そもそも私たちのからだは、精神や肉体、心が入った器であるという言い方をする人がいます。入れものの中に入っているのが自分という認識もあります。その入れものは、単なる「もの」ではなく、その「もの」の中には大切なものが沢山入っています。その一つ一つは無二のものであり、全部必要なものです。それがある御蔭で生きていることができますし、そのものに活かされている御蔭でこの世に存在していることもできます。

もしも身近な機械であったにせよ、道具であったにせよ、労い思いやらないで酷使させればそのものが壊れて崩れてしまいます。先日も、畑で根が張っている土を無理に耕す際に鍬や鋤などが壊れてしまいました。目標を達成するためにとそればかりに執着して無理に無理を重ねて壊れてしまっては、大切な道具が二度と使えなくなります。修理して使えるのならいいのですが、完全に壊れてしまったら修理することもできません。機械ならまだ修理ができても、もしも生き物なら死んでしまいます。機械であったにせよ、修理できないほどの故障ならばそれは機械の死を意味します。

失ったとき、私たちは気づくものです。これは決して「もの」なのではなく、その存在は「大切なもの」、言い換えれば「いのち」を使わせていただいているという感覚です。いのちが入ったものだからこそ思いやり労うことを忘れないでいられるものです。いのちは役に立ちたいと願うものですから、役に立てば倖せですが同時に労働すれば疲労も出てくるのです。

昔からお疲れ様やご苦労様といった言葉が、労働の周囲にあるのはそこには「大切な存在」であることを忘れない思いやりや感謝がお互いにあったということなのでしょう。

今のようにものが溢れている時代は、壊れたらまた買い換えればいいというような考え方や、壊れるものが弱いから問題なのだという捉え方や、結果さえ出ればそのものは使い捨てればいいという発想を持ってしまうのかもしれません。

しかし「かけがえのない存在」、つまりは他にはとって代れるものではないその人、そのもの、その存在は代わることはできない無二のものだからこそ労い、思いやることは何よりも大切なことだと思います。

自分というものの認識に於いても、代えはきかない人なんだという自覚を持つことが自分を労い労わり、そして同時に周りも労わり労うことになるように思います。

大量生産大量消費、一斉画一に平均をつくろうとした相対思想の中で求められてきた刷り込みは社會を「もの」で溢れかえさせ、ゴミや捨てる、消耗品などという思想を拡散させてきました。

大切な存在に対してどれだけ「もったいない」と感じているか。

決して何かをしなければ役に立っていないのではなく、あなたの存在そのものが役に立っているという自己認識が必要です。そう思えないのは刷り込みであり、一度それに向き合った後に、自らの存在そのものを丸ごと認めるときにだけ人は自他の存在を「もったいない」と素直に感謝できるのかもしれません。

また自分を取り囲むいのちへ対して「あなたは代え難い存在ですよ」という気持ちを籠めていつも「お疲れ様でした」という声を感謝でかけられる自分自身の真心を忘れない実践をしていきたいと思います。

 

試行錯誤~楽しみを湧き出す~

自然農の田んぼではありとあらゆるものを毎年チャレンジしています。作物も毎年同じものを同じ場所でやることもあれば、異なる環境でやってみることもあります。水はけや日当たり、また他の草草や虫たちの繁殖の状況、今年の天候の様子や土のかおりや植え方、育て方など毎回少しずつ試行錯誤しています。そうして試行錯誤した後は、振り返り内省するのです。このやってみては振り返り、観察しては改善できる、この面白さは遊びそのものです。これは別に田んぼや畑だけをやっているのではなく、仕事でも同じように私は試行錯誤と内省をするのでよく周りから”楽しそう”と言われることが多くあります。

しかしその分、試行錯誤をしている最中は他人から誤解されることも多くあります。目標はどこにあるのかや、ポリシーがないのではないかや、ふざけ過ぎではないかなどです。その時は、周りも心配してくれてそのままではダメだと私に修正を求めてきます。もちろんダメなのかもしれないけれど試行錯誤したいのだと説明しては放り投げたりせず必ず実現させるからと伝え時間が解決するのを待っています。

この試行錯誤とは何かということです。

試行錯誤を辞書で調べると(新しい物事をするとき、試みと失敗を繰り返しながら次第に見通しを立てて、解決策や適切な方法を見いだしていくこと。)とあります。しかし私にはもっと本質的な意味が試行錯誤そのものに隠れているように思います。

それは子どもの時の可能性、つまりはアイデアや発明につながっている遊び心や余裕、好奇心を発揮させるものがあるということです。

例えば、仕事でも目標や計画通りに進めようとする人がいます。もちろん、結果と目標があってその通りにいけば自ずから求めたものは手に入ります、つまり正解を求めて正解したのです。しかしそのやり方が果たして面白いかといえば私には面白く感じず敢えて様々なことに挑戦しながら辿りつく方が楽しいと感じるのです。教科書通りに教科書をなぞって出す答えではなく、試行錯誤こそが答えだという信念通りに進む答えです。

実際の人生も同じように、計画通りではないけれどいつも計画以上のことが発生するのは様々なことを試行錯誤しているのを已まないからです。この試行錯誤という考え方は、「この方法もやってみよう、この方法も試してみよう、あの方法ではどうだろう」といつも心が夢中にワクワクドキドキとそのものへの取り組みを心底楽しんでいる状態です。もはや四六時中同じことを考えては、もっとああしてみたらどうか、もっとこうしてみたらどうかと試したいことてんこ盛りです。

実際に先ほどの自然農でも実際は苦労の方が多く、肉体的にも精神的にも過剰なエネルギーを使っています。しかし、それをもし結果のためにただ決められた通りにやるだけならこれは続かないように思います。自然農を楽しめるのは、自然から学び観察をし、それを実践する中で上手くいかないことが多いからこそ面白いのです。

他人からは趣味だから楽しいと言われることがありますがこれは趣味だから楽しいはずはありません。何を取り組むことでさえ、試行錯誤できるから楽しくなっていくのです。つまりは趣味にしてしまうほど試行錯誤をしたのです。特にきつい仕事や大変だと思えるからこそ、自分の好奇心が枯れないように様々なことを試してみてはちょっとずつ変えてみて挑戦しているうちに次第に楽しい心が湧きでてきて趣味になるのです。

試行錯誤というのは、子どもの遊びに似ています。目標ばかりを押し付けられ、計画通りにいくことがもっとも正しいと刷り込まれると「もっとこうしてみよう」という楽しむ発想が消えていくように思います。厳しいプレッシャーの中で、正確無比にやっていこうとし過ぎては楽しくない日々でも無理に納得している人もいます。しかしそれがかえって生産性が落ちてアイデアが失われ、無機質に作業に没頭しているではかえって効率も効果も下がるかもしれません。

同じ遣るのなら、同じやらないといけないことなら、どうせなら思い切って試行錯誤を楽しもうと転換して取り組むことで子どものように遊び心や余裕、試行錯誤を味わえるように思います。

子どもは夢中で遊びこむ中で人生の大切な智慧を自分で会得していきます。人生は常に子どもから学び方を学び直す必要を感じる日々です。そして子どもが憧れる大人とは、子どものそういう試行錯誤を失っていないユニークな大人ではないかと私は思います。

試行錯誤できる有難さを感謝のままに、常に日々新たに楽しみを湧き出す実践をしていきたいと思います。

時間をかける営み~善きこと~

自然の中で様々な作物を育てているとじっくりとゆっくりと物音が動くことの真価に気づくものです。先日も「ちょっとずつ」こそ智慧であると書きましたが、この時間をかけてじっくりと行われることについて物事が成就することの本質を感じます。

インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジーに下記の名言があります。

「善きことはカタツムリの速さで進む」

この善きこととは、自然の悠久の流れのことをいうように私には思います。自然の浄化力というものは、とても偉大であり壮大な時間をかけて自然は元に回帰します。それはまるで宇宙の銀河が無に回帰するように、星々の存在が無限であるかのように私たちの想像をはるかに超える営みによって改善され続けます。

地球の悠久の営みの前では、私たち人間が何かの人工物をいくら創ったとしても、そのうちすべて土の中に戻っていき何事もなかったかのようにしていきます。どれだけ人間が眼前の変化に焦ってみても、長い時間をかければ必ず自然に戻るという安心感こそが自然の醍醐味であろうとも思います。

世間にはこのままでは地球は滅ぶと危惧する人もいますが、実際は人類が亡びそうなだけで地球の営みはまた悠久の時間をかけて回帰していきます。「時間をかける」ということは、その心に自然の営みに逆らわない本質のままの実践をするということです。周りから見れば変な実践に見えるようなつまらないことであっても、その決心が自然に照らしたものならばそれは時間をかける営みになります。

今の時代、あまりにもスピード重視、効率重視、結果重視で、不安をあおり焦りを与える競争原理が空気のように社会を包みますが、その心に理念や初心が根付いているのなら本質からブレずにじっくりと実践し歩むことを忘れないでいられるように思います。

ガンジーがいう人類に対してのもう一つの言葉です。

「人生は速度を上げるだけが能ではない。」

魂を生きたガンジーだからこそ、速度というものについて普遍の考えを持っていたのかもしれません。終わりもない始まりもないところにもしも自分を置くとしたら、速度というものは関係がないものであることに気づきます。

「重要なのは行為そのものであって結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、自分ではどうなるものではなく生きているうちにわかるとも限らない。だが、正しいと信じることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ。」

これもまた「善きこと」そのものの言葉です。

この重苦しい社会の雰囲気を、一つひとつの実践で取り払っていきたいと思います。

忘れてはいけない視点

人は物事をどれだけ長い目で観るかで物事の視方が変わっていきます。

自然はとても長いときを生きていて、自分だけの人生などを考えている暇がありません。何万年も何千万年も変化を已まずこの地球で生きることを許されているということを味わい楽しんでいるかのようです。

全ての「いのち」には自立というものがあります。

例えば、親子がいて幼い頃は守られますがある時期からは自分でやることを促され自立していきます。猿であろうが犬であろうが、鳥であろうが親が子に対してある時期を境にそれまで分けていた食べ物を一切分けない姿をみかけます。

ここに一つの気づきがあります。

長い目でみたら親は必ず先に死んでいきます。死んだら子どもは自分で生きていかなければなりません。見た目には親が子を突き放し大変厳しいように見えても実際は深い慈愛から行っているものです。その時に生きて往けず死んでしまう子どもがいて可哀想だと思いますが、長い目でみたらそれを乗り越えていかなければ先々にもっと辛いことが起きることを知っているのです。長い目でみるとそれは甘やかしているのかどうかは一目瞭然です。自然の親子は長い目で観て善くないことは絶対に善くないとして厳慈に透徹するのです。真の愛情というものは、狭い視野た短慮では理解できず長い目で深慮するときにこそ実感するものだと私は思います。彼ら自然の親子の愛情は少しも変わらず「いのち一切の愛」を丸ごと与え続けて悔いはありません。

自然というものは偉大な長い時間を長い目で考えて活動しています。

今の時代の私たちはとかく短い時間の短い目で物事を考えてしまいます。全ての中心に自分を置いてしまえば、視野も狭くなり余計に目先の問題だけに終始してしまうのでしょう。今は生き方の実践というものをあまり優先されなくなったのでしょうが、昔の生き方を守っているインディアンや少数民族たち、古老たちが語る言葉には何代も廻ることを優先させる文化があります。

自然は悠久の時をもっています。

その悠久の時に自分を合わせるとき、長い視野の実践が如何に自然の智慧そのものであることを自覚するのでしょう。情報化社会のスピード重視の変化の中で、長い目でなど死語になりつつありますが本来の視点は「いのち」や「生き方」にあることを子どもたちのためにも私たち大人が忘れてはいけない視点であると思います。

刷り込みに負けない胆力、刷り込みに流されない信念、そういうものを長い目を通して培っていきたいと思います。ここまで「いのち」をつないでくださった方々たちのご縁があって今の私が存在できているという真実は決して忘れてはならないと思います。

子ども達のためにも長い目で見守っていきたいと思います。

 

「とはいえ」のない世界~子どものままに~

先日、ニュースを見ていたらアマゾンではダムが乱立をはじめ、各地の少数民族たちが移住を迫られているということを知りました。世界の奥地には、私たちのような文明が影響を受けていない場所がたくさんあります。人類は多様化し、それぞれの生き方を自らで選びそれぞれに環境と一体になって生き残ってきましたがグローバリゼーションは地球の隅々まで広がっていきます。

経済だけを優先し、今さえよければいいと突き進んでいく姿に未来への深い危惧を感じてなりません。世界は今、覇権もアメリカから中国へと移動をはじめていてまた均衡が崩れて乱れる予感もします。しかし同時に、私たちはどこかで立ち止まりまた深く内省しなければこのままでは取り返しのつかないことになるのではないかとも感じます。

今から23年前に、世界で最初の「地球サミット」がブラジルのリオで開催されました。その時、カナダ出身のセヴァン=カリス・スズキさん(当時12歳)がお小遣いをためてブラジルにやってきてそのサミットで世界に向かって発信したことは今でも「伝説のスピーチ」として語り継がれています。

その中の一文に大人たちに向かって子どもが訴えるとても心に響く文章があります。

「If you don’t know how to fix it, please stop breaking it.」(もうこれ以上、直し方のわからないものを壊し続けるのをどうかやめてください。)

これは大人の人たちへもうこれ以上、自然破壊をやめてくださいという訴えです。原発であれシェールガスであれ石油であれダムであれ、目先の損得に負けて国益があり便利だからと今の大人たち皆がそれをやってしまい長い目で観たら大変なことだと分かっていても直さないならそのツケは全部子ども達へ先送りです。どうかそれに気づき、そういう生き方を改心してくださいと世界へ訴えたのです。

それからもう23年経ちましたが一向にそのようにはならず、謙虚に奥地で何代先のことまで考えて何千年も何万年も生き抜いてきた少数民族たちとその自然文化も破壊していくでは、人類の未来が心配になるばかりです。

またこの少女は続いてスピーチで語り掛けます。

「小学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、世の中でどうふるまうかを教えてくれます。たとえば、争いをしないこと、話しあいで解決すること、他人を尊重すること、ちらかしたら自分でかたずけること、ほかの生き物をむやみに傷つけないこと、分かちあうこと、そして欲ばらないこと。ならばなぜ、あなたがた大人は、私たち子どもに「するな」ということを、自分達はしているのですか?」

これらの中には大人たちがよく用いる「とはいえ」ばかりがあることに気づきます。子ども第一義の中心にある「大人のとはいえを取り除く」というのは、言行不一致の生き方を改善しようとする生き方の事です。子どもを思うなら、自分の実践の先に自分の子どもたちの実践が続いていくことを自覚するべきです。

そして子どものことを真摯に思いやり、人類の未来に確かなものを譲っていくのなら今の自分たちの生き方を見つめなければなりません。それは善か悪ではなく、自分が決心した生き方をそれぞれが実践していくということではないかと私は思います。子ども人権宣言のヤヌシュ・コルチャックもいいます、私たちは「大きくなった子どもなのだ」と、だからこそ大人か子どもかではなく子どものままに子どもを見つめる必要があるのです。

そしてその少女はスピーチの最期にはこう締めくくりました。

「わたしたち子どもの未来のことなんて、みなさんの議題の中にすら入っていないじゃないですか。みなさんは、私たち子どもの未来のことを本当に考えてくれているのですか?私のお父さんは、いつも、「人間の価値は、何を言ったかではなく、何をしたかで決まる」と言っています。でも、私は、あなたがた大人がこの地球に対していることを見て、泣いています。それでも、あなたがた大人はいつも私たち子どもを愛していると言います。本当なのでしょうか?もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを言葉でなく、行動で示してください。」と。

私たち人類は何万年もこの地球で、生きることを許されてきた存在です。人口も80億を超えたといいます、この先、私たちはどのように暮らしていくのか。子ども達はこの先、何を指標に自分たちを生きていくのか。問題ばかりをみては問題を先送りするのを当然にするのではなく、今はもうすでに答えを生きる時代に入っていると思います。

如何に自分の答えを持つか、そして自分の答えに正直に生きるか、時代は人類に最大の試練を与える時期に入ってきたかもしれません。この時代に産まれてきたことを誇りにして志のままに希望を歩んでいきたいと思います。

私たち日本の文化が、必ず世界に役に立つ日が来るはずです。その日まで、真摯に直向きに生き方の原点回帰と改善を続けていきたいと思います。

 

自然の実践~積小為大~

自然農の実践に取り組む中で、年数を積み重ねていくと年々変わっていく姿を愉しむことができます。

例えば、雑草の種類なども最初は根強い雑草で大変だった場所も一年間作物をその場所で育てたならばその作物と共生関係がある草たちが周りに定着していきます。最初は水田でもなかった場所を開墾し、一年間自然農で水田を維持しているとそこに豊かな生態系も発生してきます。

そして翌年にはその卵や子孫たち、またはその生き物につられてともに循環する食べ食べられる関係のものたちが次第に増えていきます。今まであった生き物たちは減り、新しい生き物たちの新しい住まいになります。そして1年、また1年とめぐりを共に積み重ねていくことでその場所は安定し、そこは人間と作物を中心にした他の生き物たちを邪魔しない倖せの楽園になります。

つまりは中庸、「バランスの維持」をはじめるのです。

自然に任せるというのは、くり返し手間暇をかけて実践を積み重ねていくことです。いくら速く急いでと頭で焦ってみても、自分勝手な変な技術が身に着くだけです。そうやって無理に除草や防虫に苦心していたら、そのうち作物がうまく育たないからと除草剤や農薬、科学肥料を使いたい執着に囚われて便利か不便かと頑なになるだけです。もしも一度でも使ってしまうと、そこには共生の生き物たちではないものばかりが集まってきますからまた別のモノを使って追い出さなければならなくなります。

これは人間の我欲にも似ているように感じます。

人間の我欲も、自分がその我を丸ごと認めず速く急いでと焦ってしまえばそのうちできることの実践を積み重ねて人格を磨くよりも、もっと簡単便利に実践せずに上手くいく方法ばかりを探してはどこかすぐに実現できるような方法論には挑戦しても自らの実践は怠り減らすようになります。そのうち我に呑まれて決心したことも忘れてしまいます。

同じように一度そうやって怠ると自然農のように手間暇の除草や手塩にかけて見守り作物そのものの育成をカバーすることよりも、その作物が弱いからだとか周りの環境が悪いせいだとか自分を変えること以外のことに終始するばかりです。

自然を相手にするとき、「自然を無理に征服するのか」、もしくは「自然に従い応じて任せつつ自分の方を変えるのか」はその人の生き方次第です。しかし前者は我との戦いのように常に自分を責めては他人を責め、速く結果を出して成功するためにこれでもかこれでもかとあらゆる方法論を考えては頭が痛くなり困ってしまうばかりで停滞します。後者は我があることも自然であると丸ごと認め、その我に応じて従い無理をせずに融通無碍に素直に自分が変わることを愉しむことで誰のせいにもしなくなり、弱くても丸ごと認めることができるように思うのです。

自然農の実践をしていていつも有難く感じることはまったく自分の思い通りにはならないことです。しかし同時にそれでも信じて続けて自分を変える方を実践していたら、自分の思った以上のことをいつもしてくださっていることに気づき深い感謝の心がしみじみと湧いてきます。自分が傲慢にならないように教えてくださり、自分が中心にならないように助けてくださり、自分ばかりを優先しないようにと諭してくださっている。

本来、何が自然だったのかを感じられることは「変わる倖せ」を謙虚に感じられる自分の時に味わえます。真の教えに出会うときもそういうときですし、ご縁のつながりに気づけるのもそういうとき、一期一会の今を得られるときもまたそういうときです。

常に自分を下座におけるのは、自然に沿った生き方がしたいと憧れ決心した日があったからだと思います。まさに自然の実践とは「おれがおれがの我を捨てて、おかげおかげの下で生きる」働き方そのものです。

今年もまた少しだけ昨年よりも拡張し様々な稲と、様々な苗、そして数々の自問自答に挑戦ますが、ちょっとずつ増えていくことや少しずつ積み上げていくことの醍醐味、その妙味をたのしみながら確実に自然の技術を体得し実力を磨き高めていきたいと思います。この「ちょっとずつ」もまた自然の智慧の一つであり、ちょっとずつだからこそ変化が確かに観得るからです。

常に真心は芭蕉の「古人の跡を求めず 古人の求めたるところを求めよ」の中です。人類の刷り込みを取り払うのは何が自然かに自分自身の布置を正しく定めてからです。

子どもたちに譲る世の中のためにも、二宮尊徳の積小為大を実践をより深めて学びをものにしていきたいと思います。ありがとうございます。

 

自分を変える~刷り込みを取り払うこと~

人間は動機の目的を常に初心や理念で腹に据え、自ら掃除をするかのように我欲や私心を取り払わずに何かに執らわれてしまうと本質を見失ってしまうものです。そもそも何のためにやっているのかを自分自身が忘れてしまい、自分がこうしたいやああしたいといった執着に囚われてしまえばありのままに視野を広げて素直に物事を観ることができなくなるものです。

以前、小林正観さんの「MUST」くんと、「としこ」さんという話を知ったことがあります。このMUSTくんというのは、「ねばならない」という状況になっている人で、もう一人のとしこさんは「とらわれない・しばられない・こだわらない」の頭文字の略で、「融通無碍」の状況になっていると言います。

このねばならないというものがあればあるほど刷り込みが深くなっているのではないかと私は思うのです。例えば「親子はこうあらねばならない」「会社はこうあらねばならない」「私はこうあらねばならない」「社長はこうあらねばならない」「部下はこうあらねばならない」「世の中はこうあらねばならない」など、これらも全て自分の刷り込みに縛られている元凶でありそれをどう断念し手放すかということが肝心なのです。これらの「ねば」ならない人を総称して冗談でしょうが「ねばねばした人」と呼ぶそうです。

またとしこさん「とらわれない・こだわらない・しばられない」の方は、「それもいいね」「そうなったら嬉しいね」「だったらこうできるね」「転じてみてら面白いかも」というように、視野も広く心も寛く、あっという間に「物の視方」を変えて自分の方を変化することができます。こういう状態を素直というもので、それは単にその人がポリシーがないからそうなっているのではなく、確かな理念や初心を忘れずに揺らぐことがない信念があるから変化を楽しんでいくことができるのです。

私もよく「なんでもいい人」と勘違いされることがありますが、実際は理念や初心、本質には徹底的にこだわります。なぜならそれが全ての動機の理由であり、それがやりたいから自分を変化させていきたいからです。相手を変えようと思えば思うほどに執らわれは深くなりますし面白くなくなってきます。しかし自分の方が変わればいいと、物事の観方を変えてしまえば嬉しい楽しい仕合せと感じることが増えるのです。

しかし人はいくらこれらの理論を頭で理解しても実際にはそれはできないものです。現実は頭で考えたようにはラクにはいかず、常に現実を変えるには「現」場+「実」践という現=実の方を変えなければ信が身につかないものだからです。物事を観方を変えるということであったにせよ、それは実際に自分の方を変える実践を日々に積み重ねて年数を経ていかないとできるようにはなりません。簡単に分かったからと現実が変わるわけではなく、それ相応の実践と体験を経て本質から外れにくくなってくるのです。

だからこそ何よりも「信じること」と「実践すること」が大切なのです。

相手と自分との執着で「こうあらねば、あああらねば」と投げつけ合ってはねばねば粘着して身動き取れない人間関係を続けていても御互いに苦しいだけです。せっかくのご縁なのだからと思い切って一緒に新しいことにチャレンジしようとか、新しい自分に出会えるかもとか、新しい発見があるかもとか心を気楽に笑って取り組むことでねばねばもまた解きほぐされていくように思います。

人間は誰しも剣豪宮本武蔵のように「無の境地へ」とはなかなかいきませんが、しかし本質や理念を少し自分よりも優先し自分の執らわれに気づくようには努力していきたいものです。自分がどうしても行き詰り生きづらいのは我執がこびりついているからでそれを理念の実践によって仲間たちと一緒に一つ一つ取り除いていけばそのうち心もまた楽になっていくように思います。

私たちの仕事は「子ども第一義」、子どもが憧れる生き方を譲ることを優先するのだから今の社会や今までの過去の柵から沁み付いた自分の刷り込みや執らわれを一つ一つ丁寧に向き合い実践により取り除いていきたいと思います。

自分が変わる機会というのは人生では何度でも出会えます。そのつど、感謝の心で変わらせていただける仕合せに出会った御縁を大切にして無二の一期一会を味わっていきたいと思います。

ありがとうございます。