競争原理の刷り込み

人は競争原理の社會の中で、できる人とできない人、勝つ人と負ける人というように二分化しているものです。社會の価値観というものは、まるで空気感のように、当たり前にその意識を存在させているものです。

例えば、魚が水があることをいちいち意識することがないように、鳥が風があることをいちいち意識することがないようにそれは当たり前になっています。競争原理というものも産まれたときから当たり前になっていたら、それを疑うことはありません。

しかしよくよく本質から省みてみると、確かにその価値基準は自分の人生観において多大な影響を与えていることに気づきます。

そもそもできる人にならなければならないという考え方は、できることが良い、できないことは悪いという価値基準に縛られているものです。できる人というのは、学校では100点の人、できない人は赤点と言われるような成績が悪い人です。学校でも二分化してどちらかといえばできる人、どちらかといえばできない人と分かれます。

そうやって一つの集団ができる人できな人に分かれて評価されることでモチベーションを上げようとしますが、それは競争原理が働き真の協力は生み出せません。できる人が人を育てられないとか、できる人はできない人の気持ちが分からないとか、できる人は周りの自信を奪っていくとか、そうなる理由の根本にはこの競争原理の刷り込みが関与するからのようにも思うのです。

できる人は同時にできない人をつくります、これは被害者が同時に加害者をつくるのと同じです。自分というものを中心に、そのどちらかと分けるという考え方そのものが競争原理であるという捉え方です。そうではなく、そのままゼロベースでフラットで物事のモノサシをもっているか、それが刷り込みのない状態での理解です。

もしもこの競争原理の刷り込みが取り払えるのなら、できる人やできない人という分け方ではなく「できないことができる人」という考え方が持てるようになります。それは言い換えれば、「自分にしかできなことができる=自分らしい人ほどできないことができる。」ということになります。

自分らしさというものは、この競争原理の刷り込みのないところで初めて持てるように思います。その人らしい、その持ち味を自分で発揮できているというのはその組織や集団の中から競争原理が消えていくということを意味します。

今の時代、一人で何でもできる人を目指し、なんでも一人で完璧に行うことが最善であるかのように錯覚して孤独に苦しんでいる人ばかりです。これを私のメンターは現代うつだと言います。ようやく苦労してできるようになっても、結局は孤独だったでは何のためにできるようになりたかったのかを忘れてしまっています。

自分らしく生きるということは、競争原理を手放すということです。これは競争か協力かという意味ではなく、そもそも自分は自分のままでいい、自分の得意や持ち味を活かしてできることをやっていけばいいという執着のない自然体の姿になることです。

様々な固執や執着が、自分の立場のことばかりを憂い、周りにレッテル貼りをしては他人の自信を奪っていきます。そうではなく、「自分らしくいる」ことを大事にしていけば周りのもその人らしくいることを認め尊重するつながり和合する関係になっていきます。

競争や協力を超えた、和合、つまりは八百万の神々と日本古来から大切にしてきた真の関係をこの時代に取り戻すことが刷り込みを取り払うことではないかと私には思えます。自らの実践を用いて、その刷り込みを解き明かしていきたいと思います。