今の時代はよく無理をしてからだを壊す人が多いと言います。無理に無理を重ねては気が付いたら大変なほど酷くなっているでは、そこから回復治癒するのは長い時間がかかります。本来は、健康を維持するために未病といって自分の状態を早めに察知して病気を未然に防ぐようにできればいいのですが自分のからだを労われないことでなかなかそれに気づけないようにも思います。
この「自分のからだを労わる」というのは、とても大切なことで一番身近な自分との付き合い方が他人への付き合い方に出てしまうようにも思います。この自分を労わるとは何か、それを少し深めてみたいと思います。
そもそも私たちのからだは、精神や肉体、心が入った器であるという言い方をする人がいます。入れものの中に入っているのが自分という認識もあります。その入れものは、単なる「もの」ではなく、その「もの」の中には大切なものが沢山入っています。その一つ一つは無二のものであり、全部必要なものです。それがある御蔭で生きていることができますし、そのものに活かされている御蔭でこの世に存在していることもできます。
もしも身近な機械であったにせよ、道具であったにせよ、労い思いやらないで酷使させればそのものが壊れて崩れてしまいます。先日も、畑で根が張っている土を無理に耕す際に鍬や鋤などが壊れてしまいました。目標を達成するためにとそればかりに執着して無理に無理を重ねて壊れてしまっては、大切な道具が二度と使えなくなります。修理して使えるのならいいのですが、完全に壊れてしまったら修理することもできません。機械ならまだ修理ができても、もしも生き物なら死んでしまいます。機械であったにせよ、修理できないほどの故障ならばそれは機械の死を意味します。
失ったとき、私たちは気づくものです。これは決して「もの」なのではなく、その存在は「大切なもの」、言い換えれば「いのち」を使わせていただいているという感覚です。いのちが入ったものだからこそ思いやり労うことを忘れないでいられるものです。いのちは役に立ちたいと願うものですから、役に立てば倖せですが同時に労働すれば疲労も出てくるのです。
昔からお疲れ様やご苦労様といった言葉が、労働の周囲にあるのはそこには「大切な存在」であることを忘れない思いやりや感謝がお互いにあったということなのでしょう。
今のようにものが溢れている時代は、壊れたらまた買い換えればいいというような考え方や、壊れるものが弱いから問題なのだという捉え方や、結果さえ出ればそのものは使い捨てればいいという発想を持ってしまうのかもしれません。
しかし「かけがえのない存在」、つまりは他にはとって代れるものではないその人、そのもの、その存在は代わることはできない無二のものだからこそ労い、思いやることは何よりも大切なことだと思います。
自分というものの認識に於いても、代えはきかない人なんだという自覚を持つことが自分を労い労わり、そして同時に周りも労わり労うことになるように思います。
大量生産大量消費、一斉画一に平均をつくろうとした相対思想の中で求められてきた刷り込みは社會を「もの」で溢れかえさせ、ゴミや捨てる、消耗品などという思想を拡散させてきました。
大切な存在に対してどれだけ「もったいない」と感じているか。
決して何かをしなければ役に立っていないのではなく、あなたの存在そのものが役に立っているという自己認識が必要です。そう思えないのは刷り込みであり、一度それに向き合った後に、自らの存在そのものを丸ごと認めるときにだけ人は自他の存在を「もったいない」と素直に感謝できるのかもしれません。
また自分を取り囲むいのちへ対して「あなたは代え難い存在ですよ」という気持ちを籠めていつも「お疲れ様でした」という声を感謝でかけられる自分自身の真心を忘れない実践をしていきたいと思います。