無肥料無農薬、自然農を実践しているとそもそもの自然には全て備わっていることに気づくことばかりです。何かを足した方がいいという刷り込みがありますが、何もしない方がいいという価値観になっていくのに気づきます。そもそも何もしないといっても、自然は偉大なことをしてくださっています。
例えば、太陽の光の恵み、地球の水の循環の恵み、風が吹き抜ける恵み、土が発酵する恵み、生物たちの活動の恵みなど、数え切ればきりがないほどに様々な恩恵を受けています。それに比べて人為的なものは、助長することばかりで自然の恵みにはとても敵いません。
そう考えてみると、人間ができることは余計なことをせずに少しだけ手伝うことだけです。幼い頃にどうしても負けそうな時にだけ手を貸してあげたり、弱った時に助けてあげること、後は信じて見守るだけです。
この「信じて見守るだけ」しかないという現実の中に身を置いてみたら、如何にいのちに寄り添うということが何よりも大切なことなのだということに気づきます。
それぞれは自分の主体性で生きています。何もしなくても生きているのは自明の理で、それは心臓が脈打つように、血液の流れが止むことがないように、意識しなくても生きています。自然も同じく、何も意識していなくても生きているのです。
この生きているのだからという絶対観、当たり前の場所で自然は常に変化を已みません。その変化の中で育つのがそれぞれのいのちですから、余計なことをするとかえっておかしくなってしまうかもしれません。それは病気でも同じことです、自然治癒を邪魔することでかえって重大な危篤を招いてしまうかもしれません。
自分の中で育っていないという勘違いや、自分の中でもっと足さなければならないという思い込み、自分の中でできないことは悪であるという刷り込み、そういうものを一つ一つ取り除いていくことで、余計な邪魔をしないで自分らしく自分の成長を味わっていくことができるように思います、そして同時に同じように他を見守っていけるように思います。
自然界の中で私たちは自然が造形した化け物とも言えます。すべてはこの地球から生まれ、植物たちと同じように分化し続けて湧いて出てきたとも言えます。だからこそ偉大な恩恵の中での人為は限りなく最小で限りなく最大なのです。
そしてここでいう人為とは一体何か、それは「心」です。その心を寄せて、心を寄り添わせていくことこそ、私たちができる唯一の人為=真心かもしれません。自然界は、すべてその人つなぎの「思いやり」によって成り立っています。
自然の中での真心を学び直していきたいと思います。