自分の道を征く~天分を活かす~

人間は誰もが不平不満というものが出てきます。幸せすぎれば感謝を忘れ、与えられ過ぎれば御蔭様を忘れます。そして自分のことを心配しすぎれば、他人との比較をはじめます。今、あるものがもっとも自分に相応しいとは思わずにないものばかりを求めては努力をしなくなるでは不平不満も悩みも解決することはありません。

この「相応しい」という言葉は、私は実践することではじめて体得できるように思います。実践させていただける有難さ、今の自分のことを深く知り、それを受け容れるからこそ実践を積み重ねていこうと思う気持ちが湧いてきます。

老子にこういう言葉があります。

「足るを知る者は富み、強めて行う者は志有り」

これは足るを知るということと、志を実践するということは同じであるという境地で語られた言葉です。足るを知るという言葉は、皆が知っている通り、ないものねだりをするのではなくあるものの方を観て感謝していこうとすることです。自分が天から与えられた徳やもっとも相応しい能力を使って、如何にそれを世の中に還元していくかを考えていこうとするものです。

自分が何を天から与えられているか、それを知るために私たちは日々に研鑽を積んでいるといっても過言ではありません。あれもほしいやこれもしたいなど、我欲もあるのでしょうが実際は天から与えられたものとはそれは合わないことがほとんどです。誰かの人生をみてはああなりたいやこうなりたいと憧れもしますが、実際は自分にしかない天命があります。孔子も、五十にして天命を知るというように、実践し研鑽を積み重ねてようやく50歳になった時に天命を知りました。そう簡単に、自分が天から何の命を受けているのかは自分自身も分からないように思います。

だからこそ志が必要です。志を持ち、精進を続けるという境地は自分の天命を信じて自分が何に向いているのか、どこに向かうのかを日々に怠らずに実践を続けることで自分の天命に近づいていくように思います。そこにはないものねだりはなく、あることが有難いと実践させていただけることに感謝の心があります。

以前、教育者の森信三先生が遺したある言葉に出会ったことがあります。そこにはこの老子の境地が書かれているように思い、如何に実践人であり続けるかの大切さ、豊かに富むことと、志を高めることの両輪の価値を再認識したのを覚えています。

人間の偉さは才能の多少よりも、己に授かった天分を生涯かけて出し尽くすか否かにあるといってよい。』

天分を活かすというのは、まずその自分に不足がないと思うことからです。自分に与えられているものはすべて備わっている。だからこそ精進して引き出していこう、それをなんでもお役に立てるのなら立てていこうという心です。古今より、その天分は他人様のお引き立てにより引き出され活かされることが多いと聴きます。独り自ら粛々と実践を続けていると、それを憐れんで助けてくださる方々がいるように私は思います。それはまるで天が、陰ながら一生懸命に真摯に腐らずに素直に純粋に努力する自分のことを可愛そうだと憐れんでくれるかのようです。今の自分が最も相応しいと思えるのも、そういう境地を大切にしたいと思っているからかもしれません。また同時に生き方の先輩の凄まじい覚悟に、志がますます強くなるからかもしれません。森信三先生はこうも言います。

『教育とは流れる水の上に文字を書くような儚いものだ。だが、それを岩壁に刻み込むような真剣さで取り組まなくてはいけない。』

決して報われたかどうか実感できなくても、それでも信じて念じて祈り、そして本気で遣りきっていかなければ何事もはじまらないのだと仰います。これはまた有難い言葉で、大きな勇気と今の自分で相応しいと実践を心より楽しもうといった境地にも入れます。二度とない人生、どんな生き方をしたかどうかが天分を全うすることにつながっています。

この先の時代を生き抜いていく子どもたちの天命のためにも迷わずに自分の道を歩んでいく心の強さ、そして心の豊かさを真心で体現できる自分でありたいと思います。