常識という刷り込み

世の中には「常識」というものがあります。これは世間一般としてはこういうものだと自分が思い込んでいる制限の世界のことです。または自分が見聞きした中で定めた自分のルールと言ってもいいかもしれません。辞書には、健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別と言います。

これをアルバート・アインシュタインは、『常識とは18才までに積み上げられた先入観の堆積物にすぎない』と言います。

よく学校から社会人になって、最初の3年間に今まで学校で学んだことを御破算にしてやり直しなさいと新人教育する必要があるのもいつまでもこの常識に縛られて本当の社會人になれないから学び直しをしてもらうのです。学校の常識は世間の非常識とも言いますから、社會貢献や仕事の意義、考え方を見直してもらうために研修したりするのでしょう。

その人が持つ先入観の堆積物とは、それまでにその人が何を知識として思い込んできたか、何が刷り込みとして持っているかというその人の知識の副産物のことです。常識を破るというのはその知識で彩られた世界を勇気を出して毀してみる、恐怖があっても敢えて取り組んでみて新しい自分に体験を通して変わっていくことでその常識は新しいものに刷新されていきます。

しかしよく考えて観れば、18歳までに身に着けた刷り込みとは何でしょうか。そしてよく自分は常識的(普通)だという人の言うその常識とは何でしょうか。

それは世間一般の先入観に一番長けている、世間一般の常識に一番執着している、言い換えれば自分を合わせるのが得意だということにもなるように思います。自分を世間一般のものに合わせて造りあげてきて、その自分になりきっていて、その自分を維持していくのができる人になっているともいえます。刷り込みを持って他を刷り込んでいくのが教育だとしたら、誰かによってそういうものだと教え込まれて自分でその本質や答えを考えなくなればもうそれは先入観=常識そのものの人になっているということです。少し考えればそんなのは果たして自分そのものであるのかということに疑問が湧くはずです。

本来、人間は思い込みを取っ払ってあるがままに物事を素直に観たら本質や真理はその時々で変化します。百通りの真理があり、千通りの本質があります。それがその人らしいその人の観方です。それをこうでなければならないと、もっとも正しいと思い込んだルールを自分の中で頑固に維持し、それを他人に押し付けて周りが間違っていると矢印を他人に向けていたら気が付いたら自分が一番その思い込みや先入観に囚われてしまうかもしれません。

人は皆、誰しもその人らしさを持っていることで周りの勇気になります。自分らしさというのは、自分がオープンでフラット、何ものにも執らわれずあるがままに物事が観得る常識に囚われない自分でいることです。囚われない自分、それを自信といってもいいかもしれません。

だからこそ、まず自分自身の常識を疑ってあまりこうでなければならないという先入観に縛られないようにすることが自分自身であることや、自分らしい自分を信じる実践になっていくように思います。

世間の常識は常にその人らしさを奪っていきます。自分が勝手に思い込んだものを誰かを攻撃し否定するためにつかってはどうせ無理だと他人の自信まで奪うというのは、その人の常識の問題だということに気づいた方がいいかもしれません。むしろ、その刷り込みを使って人を非難し否定し攻撃するその心の態度が自分らしさを潰していることに気づく必要があるのです。

きっとこうだと自分勝手に思い込む前に、素直な心で新境地や新しい自分との出会い、未知との邂逅やご縁の有難さを心で求め遣りきってみたら見たことのない素のままの世界に出会えるかもしれません。

自分の殻とはこの自分の常識や偏見、先入観の事です。

その自分の殻を破っていく面白さが、人生の醍醐味であり愉しさでしょう。そういう人に出会っていくことや、そういう人に学んでいくこと、そういう人になっていくことではじめて自分自身に出会えると思います。またそういう人が語る言葉には大きな夢があります。できないのではないかと思うことに挑戦した仲間の行動から、勇気と自信を沢山いただけるのも、その刷り込みに真っ向から挑んでくれた面白さ、自分らしさに気づかせてくれたからかもしれません。

久しぶりにある人の講演を聴きにいきますが、あの頃よりももっと面白い自分らしい自分になっているか、偏見のコレクションをどれくらい捨てきったか、自分自身、色々と確かめたいと思います。