人間は生まれたときは自然であっても、時間が経てば次第にその自然から離れていくものです。例えば、世の中を見渡せば分かるように自然界の生き物たちが自然と共生し暮らすのに対し、私たちは都市化された世界の中で様々なシステム化の中で暮らしていきます。
自分をシステムに合わせていくことで、今の都市化された世界に順応していくのです。その中で様々な刷り込みや知識を身に着けては、この今の社会で適応できる人間になっていきます。
自然農を実践していると、何が野生で何が人工であるかはすぐに自明します。
本来の姿がどちらで、人工的であるのがどちらかは一目瞭然です。しかし、実際の世の中では人工的である方がフツウであるといい、自然であることを障害であるとさえ言ったりします。
自分自身がどういうものであったかも忘れてしまうくらいに、周りに合わせていることを当然に思ってしまうと自分らしさなどというものも分からなくなっていくのかもしれません。
自分らしさというものは、自然の姿です。
その人のままでその人のやりたいことを保障され、その人だけではなくその人も含めた自他を尊重している関係のことです。こうでなければならないや、こうあらねばらない、当然こうあるべきだという考え方の中には、そう教え込んだ何かがあったからそう思うようになります。
教え込まれていくのは自分で考えなくなるからです。自分で本当は何かと考え続けているのなら、教え込まれたものを鵜呑みにしなくてもよくなります。きっとこうだと思い込まされたものがあること、これは当然こうだという常識、自分自身はふつうであるはずという認識こそが自分が考えなくなる原因になっているのかもしれません。
自分で考える力というのは何か、それは私の言葉では野生に戻るということです。
動物園で飼育された動物が如何に野生に戻るのか、それは大変なことのように思います。それまで餌を与えられ、環境を用意され、ぬくぬくとなんでもある中で誰かによって何かを教え込まれたのですから、いきなり自然にいくと太刀打ちできないと思うかもしれません。
しかし本来は、生まれた時は自然であり野生だったのだから自ずから自分らしく自然に入っていくこともできるように思います。自分らしいというのは、あるがままの自分を認め、あるがままの他人を認めることです。押し付け合って創りあげた架空の常識は、自分の思い通りにしたいという欲の現れになるかもしれません。
それぞれの異なる個性を発掘し、そしてそれぞれの徳性を発揮する。
これらは「認める」ことで実現すると私は思います。そうすれば私たち日本人だけではなく人類は新たな可能性を常に開き続けることができるように思います。そして自由や平和もまたそこにあるように思います。
あるがままのその人でいいと願うなら自分があるがままの自分であることに自信を持つことのように思います。昨日は、相変わらずに自分を遣りきっている同志の後姿を拝見して勇気とやる気が新たに滾々と湧いてきました。ご縁の有難いのは、気付いた同志たちが自分の居場所でそれぞれに向き合って自ら使命に抗わずに徳を磨いている姿を拝見できることです。私自身も子どもたちに、自分らしい背中が見せられるようにさらにオープンに素直に邁進していきたいと思います。
ありがとうございました。