自然界は、ありとあらゆるものがそれぞれの持ち味を活かして他と共生し生きています。人間はよくスーパー○○というように、完璧を求めては最強であることを目指したりします。何でも自分でできるようになろうとしては完璧と求めて最強になった時には一人ぼっちになったでは、その目的が倖せから遠ざかってしまうかもしれません。
例えば自然界には、必ず勝者と敗者という関係が存在します。必ず天敵が発生し、その天敵に負けることでバランスを維持していきます。それはまるで拳遊びの「じゃんけん」のようなものです。
この「じゃんけん」は、近代になってから発明されたそうですが、拳を石と鋏と紙の三種類を見立てて行う遊びです。グー・チョキ・パーでその時出したもので勝った負けたを楽しむものですが、当然ですがグーとチョキのみならば常にチョキは負けてしまいグーは勝ちます。相対のものだけでは常に勝者、常に敗者になります。もしも全てに勝つような絶対的勝者を作ってみたとしたらどうでしょうか、それは結局は勝者と全ての敗者のみの関係になるでしょう。絶対的勝者は今の人間(自我)が目指している究極の姿のようにもみえ、協力(助け合い)とはまるで反対の方に進んでいるようにも感じます。
本来、自然は「協力」(助け合い)をするように多様化していくものです。一つのものだけになれば、生き物たちは助け合えなくなるから多様化します。そこにはこの「じゃんけん」の理のような法理がハタラキ、御互いの持ち味を活かしあうことである時はグーが頑張り、ある時はチョキで対応し、またある時はパーで乗り越えるように、様々な者たちがお互いの徳性を活かしあってこの地球上を共に生き抜いてきたとも言えます。
自分か相手かになれば、敵味方になりますが本来の自然はみんなが味方だという考え方に根差しているように私には思うのです。それは昆虫だけではなく、樹木、または動物たちにいたっても御互いが「じゃんけん」しながら遊び、この時は何でいこうかと互いの持ち味を認め合って伸ばしあっていくのです。
人間が最強であると錯覚すれば、もしも天変地異で自然界が破綻するとき私たちは本当に最強だとその時でも思えるのでしょうか?宇宙にいけば、結局は星々に今の地球の生物たちを選択して持っていくしかなく、しかしそれでも適応の変化に耐えられず必死に種類や数を増やそうとするはずです。それは自明するはずなのに、なぜ今のように絶滅していくものをそのままにするのかは人類の滅亡を早める気がしてなりません。
本来の多様性は、自他を丸ごと認め持ち味を活かし、その持ち味によって助け合う時に最大限に効果を発揮します。こんな時は誰、こんな時は何と、まるでじゃんけんのようにみんなが役割を出し合っていけば、本来の「最強」の真実が確信できるように思います。
組織の本来の「強み」とは一体何か、その強みを活かすとは一体何か、そして「弱み」とは本当は何か、自然界から照らしてみて本来の姿を確認していきたいと思います。自然は全てを物語りますが、じゃんけんを産み出した発明者のような技術を開発し、子どもたちにその智慧と工夫を譲っていきたいと思います。