先日、ある人と一緒にやりたいことを考える中で思うことがありました。やりたいことをやるというものの中には、どこか自分勝手な傲慢な我が強く出ているようにも思います。自分が思い通りにしたいという欲求は、次第にやりたいやりたくないを決めてはそのうちやりたくないことはしたくないと我儘になったりします。
本来、やりたいかどうかよりも全ての出来事やご縁、役割はさせていただく中で発生していくものです。その役割が尊いと感謝できるから、はじめて「やりたい」という真心が発露するわけであってさせていただけることに仕合せを感じる心があってこそ真のやりたいに出会うのではないかと思うのです。
例えば、誰かが困っている、仲間が困っている、これをやることが世の中の人たちの救いになる、もしくはこの仕事をやることで周りの夢になり大きな貢献になると思うほどにそれをはじめて心は「やりたい」と思えるように思います。やりたいことから探す前に、させていただける感謝に出会うことで自ずからやりたいことに出会うように私は思うのです。
逆説かもしれませんが、やりたいことから探している人は本当にやりたいことには出会えないように思います。むしろ、なんでも自分にさせていただけるものは選ばずにさせていただきますと謙虚に生きる人は常に自分の思っている以上にやりたいことをさせていただけることに感謝してよりやりたいことをはっきりさせているように思うのです。
やりたいというのは、させていただける感謝を先にそのあとに何がやりたいのかを考えるという順番さえ守れば、自ずから素直になることができ、やりたいことをできている仕合せ、自己実現の充実感も味わえるのでしょう。
させていただける感謝は、積極的に御蔭様でと取り組む真心の実践で現実の仕合せと結ばれていくように思います。不平不満からやりたいとかやりたくないとか文句を言う前に、本来のあるべき自分を取り戻してから本物のやりたいことに出会っていければ人は仕合せです。やりたいことをみんなができる優しい社會、仕合せな社會は、おかげさまでの心ではじめてできると私は思います。
以前、父から紹介してもらった下記の詩を忘れないようにしていきたいと思います。
『おかげさまで』
夏がくると、冬がいいという 冬になると、夏がいいという
太ると痩せたいという、痩せると太りたいという
忙しいと暇になりたいといい 暇になると忙しい方がいいという
自分に都合のいい人は善い人だと褒め
自分に都合が悪くなると、悪い人だと貶す
借りた傘も雨があがれば邪魔になる
金を持てば 古びた女房が邪魔になる 世帯を持てば 親さえも邪魔になる
衣食住は昔に比べりゃ天国だが
上を見て不平不満に明け暮れ 隣を見て愚痴ばかり
どうして自分を見つめないのか 静かに考えてみるがよい
いったい自分とは何なのか 親のおかげ、先生のおかげ、
世間さまのおかげのかたまりが 自分ではないのか
つまらぬ自我妄執を捨てて 得手勝手を慎んだら
世の中はきっと明るくなるだろう
おれが、おれがを捨てて
おかげさまで、おかげさまでと暮らしたい