人間には苦しみというものが付きまといます。あまりにも苦しいとき、人は逃げたくなるものです。そして苦しみのことを悪いことのように思うことがあります。しかし苦しみには種類があるように思うのです。その苦しみの本質について少し深めてみたいと思います。
苦しみとはどこからくるか、それは現実が自分の思い通りではない時に人は苦しくなります。自分の思いがあり、自分の思い通りではない現実があればそれが思い通りにいかないことで苦しみが発生します。人間には自我欲があり、誰でも自分の思い通りになることを願うものです。それを執着ともいい、自分の思いに縛られているというものでもあります。
しかしよく考えてみると、その人になんらかの理想があり、それに向かって頑張っている中で現実がなかなかそれについてこない苦しみは果たして悪いことなのかということです。理想があるから苦しむ、その苦しみは現実が思い通りにならない苦しみです。その現実から逃げたくなったからと逃げてしまえば理想に近づいていくことはありません。現実が思い通りではなく苦しくても、理想に向かっているならばそれはどこか楽しい境地を得るように思うのです。なぜならその苦しみは理想に向かっている苦しみだと実感できるからです。
なぜ夢が必要なのかは、どうせならその思いを夢に昇華してその夢に向かう苦しみに転じて福にしていこうという意味もあるように思います。思い通りではない現実が、単なる自分の欲望だけになるのならその苦しみはとても気の毒なものです。しかしこうありたい、こう生きたいといった、あり方や生き方の方で苦しみを感じるのなら自分は理想に向かっているのだから苦しみもまた味わっていこう、苦しみもまた善いものにしていこう、苦しみに挑んで楽しもうという気持ちになっていくようにも思うのです。
人は理想の高さゆえに現実とのギャップにもがき苦しみますが、その苦しみは思い通りにいかない苦しみだからこそ、それに耐え忍んで思い通りではないことも受け容れて苦しみに向かって挑戦していけば、反対に自分の理想には確実に近づいていっていると感じるのです。そう考えてみると、苦しみが多ければ多いほどに理想に近づいていると思っていいのではないかと私には思えます。その時、苦しみは悪いものではないと感じられるように思います。
人に苦しみがあるのはきっとその心に思いやる優しい心、平和を願う助け合いの心が産まれながらに備わっているからのように思います。幸せというものは、苦しみの中にある楽しみに出会うことかもしれません。私たちはどこまでいっても自然の一部でしかないのだから、それぞれが自然の理想にむかって精進していくのが宿命のようにも思います。
自然の理想に向かって苦しむことを楽しみながらいのちを輝かせて子どもに未来を譲っていきたいと思います。