心が自然と一体になるとき、不思議な感覚を覚えるものです。自然の中には不思議な空気が存在します。光と風、水と土の香り、そして渾然一体となった音の響きがあります。耳を澄ませ何も思わずそのものであるかのように解けこんでいくとき、まるで存在そのものになったかのように満たされていくものです。
人々の心を救済したいと願をかけ、祈るように真理を求めては、現実の実践に回帰し続けていても時折、人の間を離れて静かに自然と一体になると魂が安らかになります。
生きているということは、修行させていただいているということであり、その修行の最中に出会うご縁に不思議な魂の邂逅があるものです。自分自身の存在を大切にしていくことは、人間の愛を分かち合い、助け合い、そして自然の真心と響き合い、許し合うことなのかもしれません。
田畑に出ては、他の生き物たちと共に呼吸し、太陽に包まれて暮らしている仕合わせを感じては有難い活かされている魂を養っている思いです。
こういう時は、弘法大師空海の一遍の詩を思い出します。私たちの魂の故郷はこの一遍の詩の中にこそ存在しているのかもしれません。
「谷川の水一杯で、朝はいのちをつなぎ
山霞を吸い込み、夕には英気を養う。
(山の住まいは)たれさがったツル草と細長い草の葉で充分
イバラの葉や杉の皮が敷いた上が、わたくしの寝床。
(晴れた日は)青空が恵みの天幕となって広がり
(雨の日は)水の精が白いとばりをつらねて自然をやさしくおおう。
(わたくしの住まいには)山鳥が時おりやって来て、歌をさえずり
山猿は(目の前で)軽やかにはねて、その見事な芸を披露する。
(季節が来れば)春の花や秋の菊が微笑みかけ
明け方の月や、朝の風は、わたくしのこころを清々しくさせる。
(この山中で)自分に具わる、からだと言葉と思考のすべてのはたらきが
清らかな”自然の道理”と一体になって存在していると知る。
今、香を焚き、ひとすじのけむりを見つめ
経(真理の言葉)を一口つぶやくと
わたくしのこころは、それだけのことで充たされる。
そこに無垢なる生き方の悟りがある。」(性霊集 密教21フォーラムより)
魂の玉響を楽しみながら、瑞々しい風土一体、大和尊魂のままで自然と一緒にいのちを養っていきたいと思います。