人は歩むを進めていく中で、遠くを視たり近くを視たりしながら前へと進んでいくものです。しかし実際は、遠くを視ることもなく足元も視ないで歩みちゃんと歩こうとはしていないように思います。
なぜ理念や初心が必要なのか、そこはちゃんと遠くを視てはブレずに歩んでいかなければ方向を見失ってしまうからです。そしてなぜ内省と実践が必要なのか、そこは足元にあるものを視て全て自分にとって大切な意味があると着実に歩んでいかなければ体験を喪失してしまうからです。
まるで遠くの星を見つめながら足元の花を愛でることや、夢のような景観を楽しみながら手の中にあるコップの水を溢さないようなことは、「歩む」という本質において何よりも欠かせないことのように思います。
目先か将来かではなく、「今、此処」をどれだけ真摯に受け止めているかで目先も将来も大切にできるように思います。それは単に視方だけではなく、組織の在り方にとっても同じことがいえるように思うのです。理念か協力かではなく、理念も協力も大切だと実践するときにだけ、今、此処が生きているからです。
結局は、どれだけ全ての物事を「自分に必要なことだ」と感じるかどうか。一つ一つのことを自分の価値観や偏見で裁いてはあれもこれもと目で追ってばかりで、目ばかりを疲労させるのではなく、目の前の足元にあるものをどれだけ大切なことだと味わっていけるか、そこに将来に対する姿勢や今に対する覚悟、過去に対する感謝が育ってくるように思うのです。
今、起きている全てのことは自分に必要なことであり必然だった。
そう感じるからこそ、全ての出来事を慈しむように味わっていく。その心が内省であり、その有難いご縁や機会を大切に遣わせていただきますというのがいのちの在り方であり、感謝の根がはっているいることのようにも思います。
如何に感謝の根を性根に入れるかは、その人の物の視方の鍛錬に由るもののように思います。全てのことに手を抜かないとは何でも真面目に頑張ればいいのではなく、どのことも全て感謝で有難くさせていただけることにもったいないことだと尽力していくことに似ています。つまり手を抜かないとは手伝うということです。
それを忘れ自分のやりたいことができないからと、目ばかりを疲れて目頭を押さえて眉をしかめていても笑顔もなくなり健康を損ない、楽しくもなくなってきます。手伝える仕合せを自覚することや、今、目の前にきた全てのことに感謝して選ばずに全身全霊でそのことを味わっていける方がよほどの将来のことや周りの人々のことを大切にしているようにも思います。
感謝の性根を伸ばし、今、此処の養分を素直に吸収して生長のご縁を味わっていきたいと思います。