地球人財3~一円融合、結和の人~

今回のシンガポール視察で改めて実感するのは、人々の往来のスピードが加速し国と国の国境がいよいよボーダレス化し、多様な人種の接点が急増するとき、世界の一人ひとりが今後どう和して地球全体のために貢献していくかということが問われている気がすることです。

それはアジアのリーダーとしての人財をアジアからどう排出するか、あるいは世界のリーダーをどう自国で育てていくか、そこには人類の未来がかかっているということです。混沌とした夜明け前の人類は今、一つの地球の中で人類の理想の地球人財という徳才を兼ね備えた本物のリーダーたちの出現を待ち望んでいるようにも思います。

先日のIB(国際バカロレア)の教育理念は「多文化に対する理解と尊敬を通じて、平和でより良い世界の実現のために貢献する、探究心、知識、そして思いやりのある若者の育成を目的としています。」 「世界中の児童・生徒に対し、他の人たちをその違いと共に理解し、自分と異なる人々にもそれぞれ理があり得ることが分かる、行動的で、共感する心を持つ生涯学習者となるよう働きかけています。」と書かれます。

その上でグローバルに活躍するリーダー像、つまり世界人財として必要な徳才は「探究する人」「心を開く人」「知識のある人」「思いやりのある人」「考える人」「挑戦する人」「コミュニケーションができる人」「バランスのとれた人」「信念のある人」「振り返りができる人」の10項目を挙げています。

世界に出てみれば多様性や柔軟性はすぐに求められます。しかしこれは世界に出ていなくても常に自己を変化させ順応する力というのはリーダーには必須の徳目だと私は思います。つまりリーダーは、道を切り開き徳を広げていく人物であるということが自明してきます。

正解のない問題に如何に立ち向かっていくか。

21世紀はそれぞれに正解が存在していく時代であるように私は思います。だからこそリーダーは人々をファシリテートできる人物であり、全てのことを善いことへと転じ一円融合することができる”結和”の人であることが大切ではないかと私は思います。

つまり地球に棲むすべてのいのちの心の声に深く耳を傾け、あらゆるものを尊重し共感しつつ思いやり、その存在の価値を認め、その全てを福にしていけるようなリーダーが結和の人ではないかと私は思います。

今、世界が必要としているのは正義を対決させていく力よりも対話により一つの正義に結和できる力ではないかと私は思います。畢竟、グローバル人材というものは人として一人一人が如何に地球人としてのモデルを示すかということに他なりません。

対話を日々に行うことも、実践を常に怠らず高めることもすべてはこの地球人財である自分を自覚するところからはじまります。子ども達はこの先、正解がない世界で白紙から自分で未来を創造していかなければなりません。その手本としての私たち大人の生き方や働き方は必ず子どもに大きな影響を与えていると思います。

自分自身がグローバル人財ではなしに、グローバル人財を育てることなどできません。自分自身が地球人財であるからこそ、はじめて周りを地球人財にしていくことができるのです。

常に自身が世界人財のリーダーの責任者であることを自覚し、そのお手本になれるよう様々な実践に真摯にチャレンジし続け自己変革(イノベーション)を続けていきたいと思います。

 

地球人財2~徳才の責任者(リーダー)~

今回の視察の中で特に印象深かったのはカンボジアの通訳の人物です。この方は、日本に来たことはないのですが日本語は流暢に使いこなし、日本の人たちがどのような気持ちを持つのか、何に共感するのか、自分自身の持ち味を存分に活かし周りを楽しませ、周りを笑顔にし、一回のご縁で私たちの心に深く遺るような仕事をしてくださいました。

この人は言語ができるだけではなく、人間力がありました。そしてその上で役立つものはなんでも誰かのために使える人物でした。人財と人材と書いていいかもしれませんが、人は財であり、そしてはじめて人は材になる。才能だけを集めて天才集団をつくっても、その材が活かせるかどうかは人財にかかっています。

実際は道具であっても道と具によってはじめて互いに活かしあうことができます。常に目的が善であってはじめて手段は適切になるものです。手段をいくら磨いてもそれがグローバルとは言わないと私は思います。その目的の高さに応じて手段もまた磨かれ活躍の場が世界の現場に拡がっていくのです。しかしその最初はいつも自分の身近な身の周りの実践の積み重ねからはじまります。

そもそも地球人財というものについて考えるとき、一つのある問いを思います。それは如何に自分を世界に役立てることができるかという問いです。役立てるというのは、本人からすれば役に立ちたいという人間本来のお役に立てる仕合せの実現です。

よく考えてみると、私たち地球上に生きる生き物は一つとして無駄なものがありません。どの生き物もそれぞれに大切でそれぞれに天から唯一無二のお役目を与えていただき、共に有機的に繋がり合って一緒に生きていきます。それは偉大な循環の中で、決して切れることがないご縁の世界のように互いに役割を全うしています。その多くを丸ごと活かす存在こそ徳の高い人であろうと思うのです。

これらの徳が高い人(存在)は、地球上のどんな場所であれ、どんな多様な生物のなかであれ、どんな条件下であったとしても地球全体を喜ばすことができるように思うのです。つまり自分の存在を自分が喜ばせ、同時に周りに役立てる地球が喜ぶ人財なのです。まさに孔子の言う「己達せんと欲して人を達せしむ」の境地です。孔子もまたグローバル人財だったからこそ今も多くの人たちの役に立っています。

この徳というものを磨くことなしにグローバルに活躍する真の人材は存在しないのではないかと私は思います。技能は手段ですからその方法を活かすのは徳のちからに由るからです。

地球人財は常に自分の徳才を世界の中で活かすための責任者(リーダー)であり、その道を誰よりも極めたプロフェッショナルです。一人ひとりの徳の宝をどう発見し発掘し発明していくか、それが原点となり人類の発達と発展の未来の可能性を広げていきます。

引き続き、今回の学びを綴ってみたいと思います。

 

地球人財1~グローバルとは何か~

昨日は、シンガポールにあるIB教育(International Baccalaureate)「国際バカロレア」を導入している学校を中心に視察を行いました。シンガポールはグローバル人材を育成することを念頭に、「Teach Less ,Lean More」という基本指針で世界で活躍するために様々な教育を導入しています。

インターナショナルスクールから大学まで、新しい学校を中心に視察しましたが多種多様な人種の中で共通の言語を話すだけでなく、如何に御互いの違いを認めつつ、技能や才能を開花させるかということおいては、今までの暗記詰め込みのような形だけではなくファシリテーターといって教師自らが生徒たちに寄り添い生徒たちが自ら主体的に問題を解決していく手伝いをするという方式が取られていました。

そもそも何のために学ぶのかと考えるとき、子ども達が如何に自ら学ぶ力を発揮するかと考えれば自ずからどんな教育方法がいいのかは古今から変わらない在り方があります。身近な大人たちの生き方や働き方が教え方になりますから、何よりもまず先に時代の変化に対して柔軟に自分自身を変化させ続けていくことがよい実践のモデルになるように思います。

シンガポールは、もともとが海港都市であり世界のHUBになることで国家の持ち味を活かそうと努力しているように感じます。資源がないこの国の資源は人財であるとし教育予算は国防の次にかけて投資しています。実際に現地に降りたってみると、その環境と地の利があることを感じ、アジアの発展と共に如何にアジアでシンガポールの人たちが活躍できるかで国家の未来を決めるというは分かる気がしました。それだけ「グローバル」というものはこの地では大切なキーワードなのです。

シンガポールに新しく開校した「イェール・NUSカレッジ」を訪問して国際会議のシュミレーションを行うサークル活動「模擬国連」のリーダーとして活躍するある学生から話を聴く機会がありました。その際に、彼が私たちに「私たちが日本人に求めているのはアジアのリーダーを排出してほしい」とありました。それだけアジアの発展ということに対して責任を持っているのを実感し、日本という国の人財が若い人たちからも期待されていることを改めて感じました。

本来時代というものは、常にその時分に社會貢献し発展に役に立つ人たちを求めてきました。時代の変化の中で境界線がなくなり益々多様化していくグローバル社會の中で、どんな環境下であっても役に立つ人財をどう育成するかは世界の共通課題になっているということです。

今回の視察では教育の見直しをしていましたがそれと同時にそもそもグローバル人材とは何かについて考え直すよい機会になりました。明日から何回かにわけてこのグローバル人材について整理しますがすでに日本でもある一定の定義は定まっているようでここにはこう書かれています。

「未知の世界、時に非常に厳しい環境に、『面白そうだ』『やってみたい』という気持ちで、積極的に飛び込んでいく前向きな気持ち、姿勢・行動力を持っていること。そして、入社後に一皮、二皮剥けるため、『最後までやり抜く』『タフネスさ』があること。しっかりと自分の頭で考え、課題を解決しようとすること。」(厚生労働省)

世界というのはどこか別の世界の話ではありません。現実の中で生き方や働き方の中に世界はあります。なぜなら世界とは自分自身のことだからです。どんな自分になっていくか、どのように世界に役立てていくか、そのために必要な人財の要素とは何か、そこを紐解くと一つの明確な人物像が観えてきます。

子ども達のためにどのような大人の生き方と働き方を伝えていくか、地球人財の本質を学び直していこうと思います。

 

聖の意味~善い政治~

昨日は、猛烈な蒸し暑さの中でアンコールワットやアンコールトム、その他の寺院を視察しました。杜の様子はかつてインドでみたタージマハルにも似ていて、また雰囲気は日本の寺院や神社にも共通するものがあり、聖地というものは土と木と石と水、風など光と影が織りなす心地よい場にあることを改めて実感します。しかしその聖地の心地よさとは別に、信仰と紛争の傷跡もそこに遺っています。

今回の遺跡でも、権力者が変わると信仰している宗教もまた変わります。仏教であった寺院が、ヒンズー教になればそれまでの寺院もまた入れ替わります。印象的だったのが石に刻まれて容どられた仏陀の姿の彫刻や仏像を、すべて削り取り壊してヒンズーの神様に彫り直し作り変えた痕跡がありました。今までの宗教を否定し、新しい宗教を塗り替えていくというのはそれまでそこで過ごした信者や僧侶はどうなったのだろうかと思ったら虚しい気持ちになるものです。

そもそも世界どの場所であれ、聖地を訪ね信仰しようとする心は共通するものがあります。しかし同時に、一つの信仰、一つの正義にこだわって戦争や紛争を繰り返すというものも共通しています。

かつて日本でも聖徳太子の時代に、仏教が伝来しそれまでの神道を信じるものたちが豪族を中心に争いました。蘇我氏と物部氏の争いですがその紛争で聖徳太子は身内を目の前で失い、同じ国の民が信仰によって殺し合う姿に心を深く痛めたと言います。

そしてそのどちらも尊重できることができないかと考えあの有名な「和をもって尊しとなす」という17条の憲法を定めました。聖徳太子は神道、儒教、仏教を学び直し、そのどれも素晴らしいではないかとし、そのすべては一つのところから来ているとして自らが納得し周囲に説いたのです。

その思想は、一本の植物であるとしたそうです。根と茎と花、それは分かれているようだけれど実際は一本の植物である。神道と儒教と仏教もまた同じく、その本質は一本の信に変わりはないということを人々に諭します。

より善い政治を行っていこうとするとき、違いばかりを言及しては偏った正義を押し付けるのではなく本来は一つであることを伝え、それよりも人間は協力こそが大切であるということを理念にしました。

私が協力に活路を見出すのは、多様な社會の中でそれぞれが全て持ち味を発揮するために必要であると実感するからです。価値観が違うということは、それだけ人間には可能性があるということです。一つの常識、一つの価値観のみを信じるというような画一性は短期的にみたら効果があるかもしれません。しかし実際に世界遺産を訪ね、信仰の持つ側面を洞察すると長期的にみればみるほどに画一性の危うさを感じます。

人間の心に素直に問う、正しいよりも楽しいかというのは、自分が正しいに執られていないか、孤立ではなく協力をしているかという自戒の意味もあるように思います。

改めて私たちの政の理念を「和」にしてくださった親祖たち、思いやり真心を大切にそれを何よりも忘れないために「協力」を優先してくださった先祖たちに何よりも感謝の心が強く湧きました。どんな理念、どんな初心をもって生きるかはその後の歴史を決めてしまうからです。

歴史を探訪するのは子どもたちの未来を探究するのに似ています。当たり前すぎて気付かなかったものを歴史の残り香を吸い込み、もっと深く気づいて今の生き方から見つめ改善していきたいと思います。

今はカンボジアを出てシンガポールに来ています。

今日はこちらの学校を4校ほど視察する予定です。発酵途上の異国の教育の現場から、今の私たちの取り組んでいる実践を観直してみたいと思います。

 

 

 

 

尊重~世界共通の法理~

昨日はプノンペン郊外にあるNGOが支援する保育園と草木染の作業場を視察することができました。保育園では寄付やボランティアの力をかりて、様々な遊具や本、または資金を集め共働きの村の子ども達を集めて保育を行っていました。また草木染では、藍染めを中心に現地の伝統工芸に新しい技術を加味して高品質で高級な反物をつくり都会で外国の人たちに直接販売をしていました。

NGOの役目も、段階段階で変わっていくように思いますしまた現地の人たちの生き方もまた自分たちで選んでいくように思います。権力やお金が生み出すあらゆる差別と画一というものは、グローバリゼーションと共に世界に拡散しています。その中で人は人間本来の自由を急速に失っていきますから、世界の在り様を直視していかなければなりません。今回はそういう意味でも国を問わず場所も問わず、改めて人間教育の本質とその意義を考え直す善い機会になりました。

どちらにしても激動の経済変化の波の中で、少し都会から外れただけでかつての懐かしい田舎の暮らしがそこにあります。面白いことに激動の変化のスピード感溢れる都市部に比べ、まるで穏かで平和な農村部のスローな暮らしがありました。

都会では道路が拡張し建物も増え、車やバイク、あらゆる店が新装開店中です。同時に田舎ではハンモックに揺られ、木蔭で孫たちの世話をするお年寄りが楽しそうに家事を勤しんでいます。周りには鶏やアヒル、犬や猫、牛やヤギなど家畜も放し飼いです。

そういえば、昔は貝を拾いその貝を装飾し御守りにして大切な人に贈り合い、それを大事に身に着けていた時代があるといいます。

時代が変わって捨てるものもあれば、拾うものもある。

人々が捨てていくものを敢えて拾っていく人がいるからこそこの世の中は面白いように思うのです。多様性や柔軟性というものは、自然が平等に生き物たちに自由を与えてくださっていることを証明しているように思います。

人間のように一つの基準だけで他を差別し評価し裁くのではなく、あらゆる生き物たちの生き方を尊重して自由に選択することが許されています。

何が自然で何が不自然かは一目瞭然なはずですが、新しい都市化する生き方もまた排除されるものではないと私は思います。だからこそ自分自身がどのような教育を行うか、そしてどのような生き方のモデルを示すのか、子ども達の未来のことを憂慮すれば自ずから本来の在り方に回帰します。

まだ視察ははじまったばかりですが、とても印象に残った風景で締めたいと思います。

カンボジアの農村部では雨期に甕に一年中の雨水を貯めてそれを上手に活用します。甕の中には身体を洗う水や、飲用に使うもの、様々ありますがその中に一匹の蟹が入っていました。

この蟹は何のための蟹なのかと質問すると甕の中に発生するボウフラ(蚊の幼虫)を食べてくれるからだとありました。なるほどと手を打つとともに自然に精通しているその人たちの智慧を感じて何を共通して尊重したのかを気づくに至りました。

今日はアンコールワットとアンコールトムを視察します。

この地の感性に触れてみたいと思います。

発酵途上

昨日からタイを経由してカンボジアのプノンペンに来ています。空港に到着し外に出ればすぐに高湿度の蒸し暑さと、外には東南アジアの人々の暮らしの熱気に包まれます。言葉で表現できませんが、会話の雰囲気やバイクのクラクション、路上で集まり交流する姿、ゴミが散乱しその上を高級車が走りと、混沌とした都市部の風土そのものが舞い降りたようなこの雑多に蒸している東南アジアの雰囲気を味わっています。

昔、20年前中国に留学し仕事をしていた頃に似た急発展途上の国家の様相に似ていて懐かしくもあり、この先この国がどのようになるのかも想像し楽しむことができます。今のここの人たちは未来がどうなるか予想できるのでしょうか、もしもこちら側だったらどう見えるのだろうかとまた空想を広げて観るとワクワクするものです。人は常にその心境によって常に自らの新鮮さを保てるのかもしれません。

まだまだ一部を感じるだけですが、国の姿にはその発達と発展が今、どのくらいのところにいるのかを観察することができます。これはライフサイクルとも言いますが、起業期から導入期、成長期、そして成熟期、衰退期、そしてまた起業期というようにまるで種から花が咲き実をつけて枯れるように生物はそのサイクルを免れません。

その生物のサイクルは国家も同じく、そしてそこに暮らす人たちにもまた同じようにその道理に従い自然の一部として生きているのです。そう考えてみると、私たちは生物ですから人間の一生というものや国家、世界の一生というものは如何に発酵するかということにかかっているように思うのです。

この発酵とは何か、辞書には「微生物が自己の酵素で種々の有機物を分解あるいは変化させ,それぞれ特有の最終産物をつくりだす現象をいう。」とあります。

つまり私たちは微生物と何ら変わりがないのですから、如何に発酵していくかで周りの発酵を促す存在になっているのです。そして発酵途上だと今の状態を定義してみればどのような最終産物を発酵サイクルで作り出すかが洞察できるようにも思います。

微生物ならその中でどのような発酵をしているか、乳酸発酵なのか、アルコール発酵なのか、もしくは腐敗なのか、その発酵をどのように司るかで人間もまた国家も変化を已みません。

発展途上の雰囲気は発酵途上に似ています。

発展も発酵も同じく、その風土の中で生きる生物たちの生き方や初心が決めますからどんな風に人々が常に微生物のように栄養を分解しイノベーションしているのか、改めて風土と一緒に観察してみたいと思います。

そして教育はその栄養分、酵母そのものです。

学びというのはご縁であり、どんな化学反応を起こすかはその人の一瞬一瞬の味わう発酵度合いに由るのかもしれません。今回の不思議なご縁もまた、どんな組み合わせで何が起きるのか、偉大な見守りと御蔭様の中です。意味を繋ぎ意味を綴れることに、改めて人のご縁の有難さと不思議さに感謝が湧きます。

今回の視察でもまた、自分の価値観を揺さぶり刷り込みを取り払い、新たな視点でこれからの教育の在り方そのものから見直してみたいと思います。

 

 

未来型とは何か

子ども達の将来に必要な力とは何か、学力についてこれから少し深めてみようと思います。

以前、米デューク大学の研究者であるキャシー・デビッドソン氏が2011年8月、ニューヨークタイムズ紙のインタビューで「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」と言いました。

つまり約15年か16年後には、65%の仕事が新しいものに入れ替わっているというのです。それくらい変化は著しく、常に今までやったことがない仕事が日々に発生し、そして淘汰されていくということです。

そこにはまったく今では想像できもしないような仕事があるはずです。

よく考えてみると、自分が小学生1年生の頃、将来の仕事でどんなことがあるかを思い出すとインターネットもまだ普及していなかったし、携帯電話もありませんでした。他にも今の社会で存在しているような職業もほとんどありませんでした。あの頃、将来どんな仕事につきたいかという夢を画用紙に書かされた記憶がありましたがあれなどは愚問だったと今なら思います。

子どもたちの可能性は、新しい未来に向かって開いています。

だからこそ、未来の教育とはそういう新しいものを認めてあげること、子どもたちがやりたいことを信じてあげること、つまりは子どもを信じ、丸ごと認め、そして子どもがやろうとしていることを見守るといったかかわりが必要なのではないかと私は思うのです。

今、幼児教育では藤森平司先生が「見守る保育」を実践しています。

まさにこの見守る保育そのものが、未来型教育の原型であろうと私は感じるのは子どもを見守るということにおいて何よりも子どもを尊重する教育方法であるからです。

子どもの未来を信じるということは、子どもを見守っていくということです。その見守り方の中には、周りにいる大人たちの生き方が問われます。そして子ども一人ひとりの主体性を如何に発揮させていくかといった、子どもを丸ごと信じて環境を設定するといった智慧が必要です。

年齢は関係なく、これは企業教育でも同じことが言えると私は思います。

未来は、創造と破壊を常に続け変化を已みません。自己改革や自己変革、つまりイノベーションという発達と発展をどう自分との対話、そして周囲との対話によってブラッシュアップしていくか、気づきの連鎖が未来の扉を開く鍵であろうと私は思います。

どう気づき、どう伸ばすか、子ども達には自由に未来を信じられるように見守りを深めていきたいと思います。

生きる力~多様性と柔軟性~

生き物がこの地球で生きるには多様性と柔軟性は欠かせない要素です。自然界を見て観ると、それぞれが異なる特性を活かしながら共に生きています。その上で、環境の変化に応じて自分の方を変化させながら周りの生き物たちと一緒に助け合っています。この当たり前の自然であることをできなくするのが、画一性と真面目ではないかと私は思います。

この2つの要素について今回は少し深めてみたいと思います。

画一性については、そもそも自分は周りと同じであるという勘違いをしてしまうことから発生してくるように思います。例えば、鳥であったとしても地上を走りまわる鳥と、遠くから渡ってくる渡り鳥は同じではありません。そんなことは誰でも知っています。地上を走りまわる鳥に、渡り鳥と同じことをさせても同じことはできません。逆もまた然りです。しかし実際に人間は、画一性で同じものを目指し同じだと信じ込まされているとタイプが異なるにも関わらず同じことをできなければいけないと思い込んでしまいます。これはとても不幸なことで、そもそも飛べない鳥が、遠くまで飛べる鳥だと勘違いしたら自分自身に絶望してしまうかもしれません。

これは鳥で例えていますが、魚に地上をチーターのように走り回れということがおかしいとも思わなくなっているのが画一性の落とし穴です。自分というものを必死に画一にしてきたことで、自分自身の特性が迷走すれば本来の多様性に気づけないかもしれません。チームで何かを取り組むには、自分の得意や持ち味を活かし合わなければなりません。そのためにはまず自分の中にある画一性の刷り込みを取り払うことが第一になるように私は思います。もっとも多様性を知るものこそが、もっとも多様な能力を互いに発見し合い、見出し、それを活かしあうことができるからです。自分らしく生きていてそれが最大限みんなの役に立つことほど仕合せなことはありません。これが自然体です。

もう一つ、真面目についてです。これは本来の真面目の意味である真剣さという意味とは違います。教育や刷り込みによって、頑固に強硬になり、視野が狭くなり融通がきかなくなっているということです。例えば、生き物たちは遊び心があります。こうでなければならないという姿よりも、あるものを活かそうとします。例えば、鳥でいえば托卵といって自分の卵を他の鳥に温めてもらって育てたりします。本来、自分で子育てするものを他の鳥に託して育ててもらうのです。自分の特性が子育てに向いていないと気付いて、それでは得意な鳥に任せようとする発想です。これを人間ならズルいとして間違っていると否定する人もいるでしょうが、これはもともとその種が生き残るために選んだ本能と智慧から来ているものです。

そもそも柔軟性というものは、自分のこうでなければならないといった融通のきかない姿から発生することはありません。自然界では、意固地に自分を持ち続けて変化をしなければ滅びてしまいます。実際の自然界では生き残るために必死で真剣ですから、頑固なプライドなど持っていても仕方ありませんから周りの変化に対して自分をしなやかに変化させていく力があるのです。つまり「自分が自分我」というものをあまり先にしない、それが柔軟性です。

自分が真面目にやっていれば正しいと思い込み、自分さえ真面目であれば問題ないと勘違いして結局は滅んでしまったでは意味がありません。生き残るために真剣であればふざけてもいい、生き残るために真剣であれば遊んでもいいくらいであることが本来の柔軟性を呼び込んでいくように思います。そこは大切なものを守るためなら手段を選ばずに”柳に風”のように”しなやか”でいようとするのが自然の中で生きる智慧のように私は思います。

つまり柔軟性というものは、真剣さの中にある自然のしなやかさといったものです。大切なものが守れるのなら、自分の方法には固執しないということです。結果は天にお任せして最善を盡せとも言ってもいいかもしれません。

これらの2つ、多様性と柔軟性はなぜ必要かといえば厳しい自然社會の中で「生き残る」ためです。生き残る力というのが、私の思う生きる力です。人間自身も国際社会やこれからの未来に向かって生き残り生き延びる「生きる力」をどう育てるか、教育の本義はそこに尽きるように思います。

本来の学力をどう育てていくか、明日から1週間かけてカンボジアとシンガポールへ訪問しますが今一度、未来型教育の原型と見守る保育の本質を自分で整理してみたいと思います。

自然の異~発達と発展~

身近な植物を眺めていると、その姿かたちの違いに驚きがあります。私たちが植物と一括りにしてみているものは実は全く異なる性質を持ったものです。これは私たちが似ているものを括り、鳥は鳥、魚は魚、動物は動物だと分けて理解しているように異なるものをどこに棲んでいるかで棲み分けをしているということです。

この棲み分けには、鳥は空に棲み、魚は海に棲み、植物は陸に棲みというようにそれぞれが棲んでいるところで分類分けしているとも言えます。この分類は人間が仕分けたものであり自然界は分類分けをしていません。

そもそも言葉というもの自体も思考の分類されたもので、これは人間が人間都合で人間基準で分けたものを一つの標準に当てはめて大よそで理解し合うために用いているからです。

しかし実際は全く異なるものを同じもので一括りするということは本来は不可能であるように思うのです。確かに似た形のものがあるのがこの世の中ですが、本当によくよく観察すると全てに似て非なる存在であることに気づきます。

人間の指紋が一つとして同じものがないように、同じ顔がないように、同じであるとうことはないのがこの世の中です。同じであると思い込むが故に、周りと異なることがよくないことだと思い込まされ、みんな同じにしないといけないと考えること自体が不自然であるように思います。

そのものの持ち味とは、そのものが異なっていることを自覚することではじまるように思います。同じ人間であっても、人には全く異なる性質があります。それは性格に顕れますし、それは生き方にも出てきます。発達と発展を考えるとき、少しずつ異なっていくこと、それは多様性ともいいますが本来異なっていった方が助け合えることが自然界の道理にあります。

金子みすずの「みんな違ってみんないい」と言う言葉がありますが、自然界は「みんないいからこそみんな違う」のでしょう。自然界はちょっとした変化によって大きく変わっていくものです。同じように観えて少し異なる存在、つまり「異」なる存在があるからこそ時代の変化、環境の変化に適応していくのでしょう。

宇宙生成や宇宙発展の進化にあわせて生命というものは、小さな変化を怠らず異なりを進めていくものです。異なっているということは、実はとても素晴らしい自然の叡智そのものです。異なっていることを恐れずに、可能性を発揮し、自分の中にある変差値に気づいたなら、それを周りのために役立てていくことで発達と発展は伸ばしてけるように思います。

自然界の慈愛は、全ての生き物たちが倖せにいのちがあるような環境を用意して見守ってくださっていることです。すべての生き物が倖せになるチャンスがある、それがまさにこの全ては「異」なるということの真意なのでしょう。

変わっているかどうかを気にするよりも、その異なる部分をどう周囲に活かせるか、それこそが自然が与えてくださった天恵であることを自覚し、共異共感を大事に自分らしく新しいことに挑戦していきたいと思います。

思いやりの心~内省実践の真価~

心を亡くすと書いて忙しいと書きます。この忙しいというものの本質は何か、それは心を見失うことのように思います。そもそも心とは何か、それを見失うということが何なのか、それを少し深めてみようと思います。

心というのは、頭で理屈で理解できるものとは異なるものです。例えば、感謝というものであれ頭で考えて感謝する人と、心から感謝する人がいます。同じ感謝であっても「心から」ではないのだから頭で行う感謝は心が入っていないものです。感謝が心から出ない時、人はその心にないものねだりや不平不満を抱いています。現実は一切に嘘がなく、その心と考えが一致していないのだから心の方が現実の世界のギャップに本人自身が苦しむものです。心は正直そのものですから、心からかどうかは自分自身が一番よく分かっているはずです。だからこそ自分自身「思い」をどう育てていくか、心をどう高めていくかは、「心から」の「心がけ」に由るように思います。

孔子が論語の中で「巧言令色鮮し仁」という言葉があります。これは本当に考えていること、心から思っていることを顔に出さない人は道徳心が少ない人だという内容です。思いやりと思いやり風の道徳心の違いは本心かどうかのことを言うのでしょう。

この本心というものは、本当の心のことで「心からそう思っているか」という自分の心と静かに向き合い心で感じていることをそのままに伝える真心の事です。よく裏表がある人や、自分の心よりも頭で考えた方を優先する人は、心がそこに入りませんから頭で考えたこととのギャップに苦しむことになります。「心から」である人は、心の赴くままにあるがままに自然体で思いやることができますから、自ずから人間関係をはじめ全ての物事を素直に感受していくこともできるように思います。

今は特にスピード社会で時間を気にしたり、比較社会で評価を気にしたりして自分の保身ばかりを考えていたら、頭で考えることが増えてしまいますからその心がどうなっているかまで気を付けることが少なくなっているのかもしれません。何かの行動を起こす時、すべて「心から」になっているか。そして自分でこれは「心から」そう思っているかと常に内省し素直さや正直さを取り戻す必要があるように思います。

そしてそのために必要な内省の工夫は、自分の心と静かに向き合い、自分が心から思っていることが何かを確認することです。それを「初心を忘れない」ともいい、「原点回帰」ともいいます。つまりは、「心を大切にする」ということです。

心が入らないことはすべて単なる作業です。心が入って初めて仕事になります。忙しいというものの本質は心からではなくなっているということでしょう。心からやったことは必ず相手の心に届きます。そしてその心は周りの人たちの心にも響きます。

「心無いことをして傷つけてしまった」とよくある後悔の念に縛られている人たちもたくさんいます。この「心無い」という意味を思い返すことで心からに気づけるかもしれません。本来人は誰しも最初はみんなとても善い人たちで思いやりがある優しい人たちです。その人たちが心を亡くし、心を見失ってしまうと、その大切な思いやりが次第に消失してしまいます。

本来、助け合い思いやりを交換し合うのが人間社會であり、共生や貢献が自然の道理ですから如何に思いやりを忘れないかを一人ひとりが生き方やあり方の芯に据えられるかが日々の実践の本当の真価のように思います。

内省は克己の工夫の最大の智慧です。常に「心から」かは自分自身が逃げずに自分の心を向き合っていくしかありません。内省しやすい環境や、また風土、一人で心を見失った人たちが自分を取り戻しまた思いやりのある人たちに戻ってこれるように、自分自身の内省実践を高めていきたいと思います。