人間万事塞翁が馬の故事「福いは禍いの門なり。是は非の尊なり。治は乱の先なり。」にあるように、一見、禍だと思ったことが実は福であったということが人生では沢山あるものです。
まるで「禍福は糾える縄の如し」のように、縄をあざなえば上下が交代で発生するように禍福もそのようなものであるということです。この禍とは何か、それは福のことです。そして福とは何か、それは禍のことです。
自分を中心に物事を考えていけば、自分にとって禍だとするときそれは周りにとって福になることもあり、自分にとって福であるのは周りにとっては禍であることもあるのです。そしてそれは自分の人生においても同じく、禍福は常に入れ代わり立ち代わり交換しながら訪れてきます。
例えば、一人の人生においては苦難や失敗があったおかげで気づかなかったことに気づき、それを努力し乗り越えて転じるとき、善いことになるものです。または逆に、楽をして上手くいったからと福を満喫しているうちに見落としたことが増えて気が付くとそれで転落することになるものです。そもそも禍も福も同一のものであり、それを如何に過ぎないようにするかが禍福合一の境地のようにも思います。
二宮尊徳は夜話の中で禍福一円をこう語ります。
「禍福二つあるにあらず、元来一つなり。」と。
その上で例えとして、包丁で野菜を切るときは福だが指をきれば禍になる。柄をもって切るか、指を切るかの違いだけだといい、次に水を使った田んぼの畦の例えから、畦があれば田んぼは肥え、畦がなければ田んぼは痩せる、その違いは水は同じでも畦があるかないかのみとしました。さらには富も、自分のために使えばそれは禍になり、他人のために使えば福になるとし、同じく財宝も貯めて使えば福になり、貯めて使わなければ禍になるとしました。
これが禍福の道理であると言います。
結局は、禍福とは同一のものでありそれはその人の転じ方次第でどちらにも観得ということです。禍福が問題ではなく、如何に「活かすか」にかかっているのが運であるように思います。どんな運もその運を伸ばしていくかいかないかはその人の覚悟した生き方や実践が決めるようにも思います。
禍転じで福にする、禍福一円観の心境というものは如何にめぐってきた運を選ばずに受け入れて前進するかということに似ています。
この禍福の道理に従って、あるがままにありのままに運と一緒に歩んでいきたいと思います。