天地の間には自然の道というものがあるように思います。
これは地球の中にいて地球の一部として生き活かされる存在だからこそ、そこには確かな法理(ルール)があります。それが自然の道というものです。
例えば、自然はそのままにしていればそれぞれに生き物たちが移動して自由勝手にその場に生息していきます。そこにもし人が入り、全部を排除して好き勝手したらその環境が崩れてしまいます。そこには自然の中で自分を活かそうとすることで周りに貢献するという法理(ルール)が働いていることに気づきます。
全ての生き物という生き物は、一生懸命に自分を生き切っていますが自然の道から外れることはありません。地球の中で天から与えてもらったあるがままの自分の持って産まれた持ち味を最大限活かしつつ生き抜いていくからです。その時点で、不自然なことはなく自然の中で自分を出し切っていますからそれが地球の自然循環に叶うのです。
太古の人は、自らでその自然の中でどこまでが許容されるのかを観察し適切に自然の法理(ルール)から離れないように自分たちのやりたいことを実現していました。周りを壊し過ぎず、分度を保ち、自分たちがどのくらいまでやっていいのかを自覚していました。まるで近江商人の実践していた「三方よし」のように、常に「みんなにとって善いか」ということを最大限優先して生きてきました。
自然界というものは、自分(小さな自我の価値観)を優先したらどうなるのかをルールによって自覚できるようにできています。そこには生成するものは全て滅する理によって自滅することを自覚するからです。如何に自分だけがよくならないように、全体(みんな)にとってどう自分を使っていくといいのかを優先しているのです。それが嬉しく楽しくありがたく仕合せであることを自然の本能が知っているたからです。
今の人たちは自然と対峙した刷り込みから、自分、自分、自分と自分のことで頭をいっぱいにし、自分自身の存在を勘違いしています。本来は天道は、御蔭様の心でもったいなく謙虚に自分の使命をさせていだたけることに感謝で実践し、人道はお互い様の心でありがたく素直に自分を周りに役立てていく報恩を実践していくことです。そしてこの「謙虚と素直」が自然の道、私の言葉では「かんながらの道」になります。祖親からずっと今までみんなが譲って遺してくださった努力と苦労の上に今の生命が存在させてもらい、今の私たちが人生を謳歌していることを決して忘れてはならないのです。
それが自然の道を思い出させる初心なのです。
四六時中、自分自分と自分のことを考えて孤独に悩む前に、活かされてつながっている存在に気づき、その自分は自然の道に外れていないか、自然の道から遠ざかっていないか、それを省みて自らの生き方を自然に学び、生き方を直していくことのように思います。自分がどうかよりも、みんなの役に立ちたいと願う生き方、周りの御恩に報いていこうとする生き方、子どもたちがこの後、私たちの生死の後に続いていくのだからこそ本来の生き方から見つめていきたいと思います。
子ども第一義の本質は、この自然の道の実践により叶います。
常に自我のやりたいことよりも、無我のさせていただけるの御恩に報いていきたいと思います。