誠の道~自然物の心~

人は自然の中に入ることで、何が自然で何が不自然かということが自明してくるものです。教えられた知識や、どこかで刷り込まれた常識ではなく、そもそも自然がどのように働き、どのように存在するかに合わせればそこには偉大な恩恵の中にあることに気づきます。

昔の人は、それを天とも言い、その天の道である誠は己の中に具わると示しました。それは自分も自然の一部であり、この生きている姿そのものが自然であるからです。呼吸をし、水を巡らせ、体験のあらゆるものを感じ取る、まさに自然物です。

中江藤樹の学問にこのような言葉が遺っています。

「天地の間に、己一人生きてあると思ふべし。天を師とし、神明を友とすれば外人に頼る心なし」

自然物の学び方として、如何に天を師にし周りの自然物から学べばそれこそ真実を得るということでしょう。草を草とみたり虫を虫とみるではなく、そのもののその姿すべてから同じように学べば徳が自らにあることに気づけます。

なぜあのような姿かたちになっているのか、なぜあのように生きているのか、静かに自然を見つめていくと其処に具わった徳に気づけます。その徳をどう活かしていくかが、私たちが天に対して誠を実践していくことのように思います。

「はかなくも悟りいづこと求めけん。誠の道は 我に具はる」 

誠に道は、生きている自分にこそあるという境地です。

「天地の大徳を生といふ、人之を受けて以て孝徳となす」

そしてこの生きている自然物が大徳であり、その中で活かされて徳を盡すことで孝行ともなります。自然物は一切の無駄はなく、ありとあらゆるものが結ばれて存在していますから自分の徳を盡せば盡すほどに周囲に好循環を与えていくものです。

真摯に自分を生きる仕合せというものは、その心の誠に出会うことかもしれません。それを致良知といい、心を清め澄まし、汚れを取り払っていくことで正直になることだと言います。

正直さというのは天地の道ですが、その正直が分からなくなっていくのが心の汚れであろうと思います。それを学問をすることで如何に徳を磨いていくかが本義なのです。そして中江藤樹はこう言います。

「人生の目的は利得ではない。正直である、正義である」

「正直である」という言葉、正義であるという言葉。

ここが如何に自然物と一体になっているかということを感じます。自然物はみんな正直であり、そして正義です。その周りの自然物をみてみたら、如何に自分が歪んでいるか斜めに物事をみているかに気づくものです。

ありとあらゆるものが自然そのものになることが誠の道です。如何にそこから離れないように日々に意味を感じ、体験に気づき、そして改善するかは人生道場の修行のようにも思います。

誠の道を確かめつつ、自然物の心のままに歩んでいきたいと思います。