これからの時代は人の心と心を如何に結び人間らしさを磨いていくかが求められるように思います。ロボットや機械の発明も進み、ますます人間とは何かとうことがはっきりと浮き出てくると思います。人間力を高めていくことで、将来、人間にしかできないことが分かり、人間はその時、本来の人間としての生活や暮らしの本質にもう一度原点回帰する日が来るように思います。
その日が来るまでに如何に自分の心を高めていくかは、人々との対話やつながりをどう結び一緒に暮らしていくかにかかっているように思います。対話というものを人々がやめるとき、そこには孤立が待っています。孤立とは不幸な姿です。如何に孤立せずに仲間をつくっていくか、古代から今に至るまで私たちは仕合せな暮らしを地球上で行ってきました。そこには常に対話があったように思います。対話の重要性とは、人と人との間で生きる私たちの智慧そのものです。
対話といえば、先日社内のクルーから「聴き合うこと」という言葉がありました。傾聴共感受容が感謝の高みまで昇華されると、聴き合いたいと心が感じるように思います。結論を急ぎ結果を焦るよりも、仲間がどのように考えているのかを聴きたくなるからです。聴きたいと思う人は、自分を変えたいと思っている人です。自分で変えたいと思わない人は、対話をしたくはありません。むしろ自分の考えや自分の能力を頼りにして、対話を避けたいと思うようになるからです。対話は心を開かなければできませんし、対話は心を伝えないとできません。対話しようとする心構えというものは、いつも心から信じているという証になるのです。
そして対話について江戸時代の肥前国平戸藩の第9代藩主の松浦清が戦国時代の武将のやり方を「ホトトギス」を使って比喩している言葉が遺っています。有名なのは織田信長と豊臣秀吉、そして徳川家康ですが私がもっとも好きなのは加藤清正の在り方です。
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉)
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)
これらは有名でホトトギスが鳴かなかったならこの3人ならどうするかということを比喩します。それぞれのやり方があって天下統一しましたが、自分ならどうするかと考えるものです。
そして加藤清正の方にはこうあります。
「鳴け聞こう わが領分の ほととぎす」 加藤清正
これは意訳ですが「仲間たちの声を聴いて各々が自分の力の及ぶ範囲で尽力していこう」という意味です。加藤清正という人物が如何に衆知を集めてそれを発展と繁栄に活かしたかが分かります。
自分の姿勢が後々にどのようになるか、歴史はそのままに教訓でもあります。清正の姿勢で学ぶ中に「上一人の気持ちは、下万人に通ずる。」があります。自分の心構えや姿勢が周りに与える影響は大きいからこそ、どんなときも油断大敵と備えることに抜かりがない透徹ぶりが、忠義の誠を育んだのかもしれません。
対話の意味について、これからもう少しまとめてみたいと思います。