思いやりの心~内省実践の真価~

心を亡くすと書いて忙しいと書きます。この忙しいというものの本質は何か、それは心を見失うことのように思います。そもそも心とは何か、それを見失うということが何なのか、それを少し深めてみようと思います。

心というのは、頭で理屈で理解できるものとは異なるものです。例えば、感謝というものであれ頭で考えて感謝する人と、心から感謝する人がいます。同じ感謝であっても「心から」ではないのだから頭で行う感謝は心が入っていないものです。感謝が心から出ない時、人はその心にないものねだりや不平不満を抱いています。現実は一切に嘘がなく、その心と考えが一致していないのだから心の方が現実の世界のギャップに本人自身が苦しむものです。心は正直そのものですから、心からかどうかは自分自身が一番よく分かっているはずです。だからこそ自分自身「思い」をどう育てていくか、心をどう高めていくかは、「心から」の「心がけ」に由るように思います。

孔子が論語の中で「巧言令色鮮し仁」という言葉があります。これは本当に考えていること、心から思っていることを顔に出さない人は道徳心が少ない人だという内容です。思いやりと思いやり風の道徳心の違いは本心かどうかのことを言うのでしょう。

この本心というものは、本当の心のことで「心からそう思っているか」という自分の心と静かに向き合い心で感じていることをそのままに伝える真心の事です。よく裏表がある人や、自分の心よりも頭で考えた方を優先する人は、心がそこに入りませんから頭で考えたこととのギャップに苦しむことになります。「心から」である人は、心の赴くままにあるがままに自然体で思いやることができますから、自ずから人間関係をはじめ全ての物事を素直に感受していくこともできるように思います。

今は特にスピード社会で時間を気にしたり、比較社会で評価を気にしたりして自分の保身ばかりを考えていたら、頭で考えることが増えてしまいますからその心がどうなっているかまで気を付けることが少なくなっているのかもしれません。何かの行動を起こす時、すべて「心から」になっているか。そして自分でこれは「心から」そう思っているかと常に内省し素直さや正直さを取り戻す必要があるように思います。

そしてそのために必要な内省の工夫は、自分の心と静かに向き合い、自分が心から思っていることが何かを確認することです。それを「初心を忘れない」ともいい、「原点回帰」ともいいます。つまりは、「心を大切にする」ということです。

心が入らないことはすべて単なる作業です。心が入って初めて仕事になります。忙しいというものの本質は心からではなくなっているということでしょう。心からやったことは必ず相手の心に届きます。そしてその心は周りの人たちの心にも響きます。

「心無いことをして傷つけてしまった」とよくある後悔の念に縛られている人たちもたくさんいます。この「心無い」という意味を思い返すことで心からに気づけるかもしれません。本来人は誰しも最初はみんなとても善い人たちで思いやりがある優しい人たちです。その人たちが心を亡くし、心を見失ってしまうと、その大切な思いやりが次第に消失してしまいます。

本来、助け合い思いやりを交換し合うのが人間社會であり、共生や貢献が自然の道理ですから如何に思いやりを忘れないかを一人ひとりが生き方やあり方の芯に据えられるかが日々の実践の本当の真価のように思います。

内省は克己の工夫の最大の智慧です。常に「心から」かは自分自身が逃げずに自分の心を向き合っていくしかありません。内省しやすい環境や、また風土、一人で心を見失った人たちが自分を取り戻しまた思いやりのある人たちに戻ってこれるように、自分自身の内省実践を高めていきたいと思います。