昨日は、猛烈な蒸し暑さの中でアンコールワットやアンコールトム、その他の寺院を視察しました。杜の様子はかつてインドでみたタージマハルにも似ていて、また雰囲気は日本の寺院や神社にも共通するものがあり、聖地というものは土と木と石と水、風など光と影が織りなす心地よい場にあることを改めて実感します。しかしその聖地の心地よさとは別に、信仰と紛争の傷跡もそこに遺っています。
今回の遺跡でも、権力者が変わると信仰している宗教もまた変わります。仏教であった寺院が、ヒンズー教になればそれまでの寺院もまた入れ替わります。印象的だったのが石に刻まれて容どられた仏陀の姿の彫刻や仏像を、すべて削り取り壊してヒンズーの神様に彫り直し作り変えた痕跡がありました。今までの宗教を否定し、新しい宗教を塗り替えていくというのはそれまでそこで過ごした信者や僧侶はどうなったのだろうかと思ったら虚しい気持ちになるものです。
そもそも世界どの場所であれ、聖地を訪ね信仰しようとする心は共通するものがあります。しかし同時に、一つの信仰、一つの正義にこだわって戦争や紛争を繰り返すというものも共通しています。
かつて日本でも聖徳太子の時代に、仏教が伝来しそれまでの神道を信じるものたちが豪族を中心に争いました。蘇我氏と物部氏の争いですがその紛争で聖徳太子は身内を目の前で失い、同じ国の民が信仰によって殺し合う姿に心を深く痛めたと言います。
そしてそのどちらも尊重できることができないかと考えあの有名な「和をもって尊しとなす」という17条の憲法を定めました。聖徳太子は神道、儒教、仏教を学び直し、そのどれも素晴らしいではないかとし、そのすべては一つのところから来ているとして自らが納得し周囲に説いたのです。
その思想は、一本の植物であるとしたそうです。根と茎と花、それは分かれているようだけれど実際は一本の植物である。神道と儒教と仏教もまた同じく、その本質は一本の信に変わりはないということを人々に諭します。
より善い政治を行っていこうとするとき、違いばかりを言及しては偏った正義を押し付けるのではなく本来は一つであることを伝え、それよりも人間は協力こそが大切であるということを理念にしました。
私が協力に活路を見出すのは、多様な社會の中でそれぞれが全て持ち味を発揮するために必要であると実感するからです。価値観が違うということは、それだけ人間には可能性があるということです。一つの常識、一つの価値観のみを信じるというような画一性は短期的にみたら効果があるかもしれません。しかし実際に世界遺産を訪ね、信仰の持つ側面を洞察すると長期的にみればみるほどに画一性の危うさを感じます。
人間の心に素直に問う、正しいよりも楽しいかというのは、自分が正しいに執られていないか、孤立ではなく協力をしているかという自戒の意味もあるように思います。
改めて私たちの政の理念を「和」にしてくださった親祖たち、思いやり真心を大切にそれを何よりも忘れないために「協力」を優先してくださった先祖たちに何よりも感謝の心が強く湧きました。どんな理念、どんな初心をもって生きるかはその後の歴史を決めてしまうからです。
歴史を探訪するのは子どもたちの未来を探究するのに似ています。当たり前すぎて気付かなかったものを歴史の残り香を吸い込み、もっと深く気づいて今の生き方から見つめ改善していきたいと思います。
今はカンボジアを出てシンガポールに来ています。
今日はこちらの学校を4校ほど視察する予定です。発酵途上の異国の教育の現場から、今の私たちの取り組んでいる実践を観直してみたいと思います。