発酵の智慧~直感と技術~

昨日、発酵場の高菜漬けの高菜の漬け直しをしました。

基本は木樽に丸ごとお任せですが、気になるときに開いてみると塩加減が足りなかったり、漬物石がズレていたりと、毎回、ちょっとずつ色々と改善しなければなりません。発酵場は狭く中腰での作業は大変骨が折れるものですが、漬物を触りながら発酵具合を確かめるのは心安まる手作業です。

今のよく出回る漬物は、化学調味料を使ったり、防腐剤を入れたり、着色したりと発酵する時間をかけずに楽に漬物風として作られることがほとんどです。見た目は本物風にパッケージしていますが、発酵の時間すらかけていないものです。安心で美味しいものよりも、形が良くお金になるものが優先されています。むしろその刷り込みも功をなし、今では安心で美味しいものの定義が本物風の方が本物と逆転してしまいました。

特に人工添加物については悍ましく、ほとんど原料が本物ではないものを用いて加工されます。飲み物、食べ物も白い粉類と水さえあればどんな味でも偽造でき、色の粉と香料さえ足せば目と舌をうまく騙せます。そして残りは腐らないように殺菌、漂白、防腐剤で菌の発生そのものを抑え込みます。

昨日の漬物の中には三年目のものがあります。

一年に数度漬け直しをするだけで熟成したうまみや味わいがあり、漬け直しさえしていれば防腐剤に頼らずに長期に保存することができます。防腐剤で半年の消費期限だとか書かれていますが、漬物は漬け直していればいくらでも腐ることはありません。

発酵とは保存の仕組みですから、防腐剤などは要らないのです。

自然というものは、必ずそのものを分解して土に還すように菌が発生してそのものを食べて消化していくものです。これは菌類に限らず、全ての自然は還元循環しますから発生するのは自然のことです。これを無理やりに抑え込もうという発想自体が無理があり、それが腸内に入ることで腸内の菌類の活動にどのような影響を与えるのかはすぐにわかりそうなものです。

腐敗するための菌を発酵する菌に代わってもらい菌の新しい暮らしの寝床にすることで発酵菌に食べ物を保存してもらうことで自然そのものを邪魔しないで一緒に生きていく共生の智慧なのです。そしてそういう暮らし方のことが熟練の智慧であり、熟練の智慧を持つ職人文化があるというのが本来の私たち日本人の美徳であったとも思います。

手間暇かけて熟成させていくというのは、生き方を通しての実践が必要です。毎回、失敗と改善を繰り返し、面倒でも「カラダで覚える」必要があります。それが本物であり、それが自然だからです。

毎年、漬け具合材料、その時の心境や手入れによって微妙に異なりますから手で触れ香りを確かめ、舌で味わい、場の空気を感じるというように五感をフル稼働して”直感と技術”を磨き学ぶのが本来の自然の姿です。

発酵の智慧は、日々の偽造に刷り込まれそうな私たちに大切なことを思い出させてくれます。道は偽造できませんから発酵は道です、その後に技術があって人は自然が何かを自明自得するのでしょう。

当たり前のことまで分からなくなってしまう人工的な社会の中で、本物の自然に触れることで本来の智慧、「カラダで学ぶ」ことを呼び戻していきたいと思います。発酵を通して昔から変わらずに大切にしてきた直感と技術、熟練して磨くことの真価を子ども達にも譲り渡していきたいと思います。

 

 

自然学問

昨日、田んぼの稲の草刈りを行いました。自然に沿って見守る農法は、稲に寄り添って育てていきますから稲の声のようなものを感じながら一緒に育ち合っていきます。

梅雨の時期に生えてきた周りの雑草たちのも、所狭しと賑わっていました。土壌の発酵が活発な場所は、稲の成長も著しく周りの草草の追随を許しません。その空間は稲がしっかりと競り勝っています。しかし、土壌の発酵が鈍いところは稲の成長もゆっくりですから周りの草草に競り負けています。

草刈りは、その稲がどのような状況になっているのかを観察しつつ稲の目線で行う作業であるとも言えます。今は、農機具や除草剤、肥料などで直接稲の目線には降りていくことも少ない気がしますが実際に稲の中に入り込み、しゃがんで稲よりも低いところで草草と対面しているとどのような環境下で稲が育っているのかを感じ取れます。

誠実に手作業で相手の高さに降りてみると、相手の心に寄り添えます。生き物には共感する力がありますから、自分の目線で頭でったちでいたら大事なことが観えてはこないのです。

手作業の大切さは、心を感じるためにあります。そして手作業でしか観えてこない境地があるのです。それが現場での学び方とも言えます。

大変でもその現場に入り、その現場の目線で一緒に考え一緒に学んでいくことが本来の道です。道は、生き方ですから心をどうするかという課題に向き合うことです。簡単便利に頭でっかちに自分に都合がよい技術を頼り便利さを追求するのか、それとも大変でも苦労してでも心を相手に寄り添い真心を追求するのか。

実際にこの自然に触れれば、仕合せ中に本物の技術を持っているのが全ての生き物たちであることを実感します。その生き物たちを尊敬して近づいていくのだから、全身全霊で「カラダ」で直感していくのが自然学問というものなのでしょう。

稲から教わるばかりですが、今年も学び直しを楽しんでいきたいと思います。

人生一生一期一会

人と人の間にはご縁というものがあります。毎日、人は何かしらに出会いますが同じ道を一緒に歩む中でご縁が深かったということに気づけるものです。どのようなご縁なのか、それは後々ふり返ってみれば自然に明らかになってくるものですがご縁の最中には感情もありますからなかなか気づけないものです。

ご縁というものは、感謝を土台に心を澄ませていくことで観えてくるようにも思います。それは仲間であったり家族であったりパートナーであったり、呼び名は色々とありますがつまりは「一緒」であったということです。

人はご縁を活かせるかどうかで、その人の人生の物語の質量が変わります。

同じご縁であっても、気づかない人、気づく人、また活かす人では全く異なる世界で生きているとも言えます。気づかない人は、自分にも気づかず、気づく人は、自分に出会い、活かす人は自他一体に生きていきます。

そうやってご縁もまた道ですから、5級、3級、初段、達人と、修行練磨することで次第に発達していくようにも思います。そしてもしもご縁の達人になったなら、柳生家の家訓のように「袖をする縁をも活かす」境地に達するのかもしれません。

松下幸之助さんも「人との縁・つながりは大切なもの。縁あることを喜び、誠意と熱意でお互いのつながりをより強めたい。」と仰っていました。素直の達人もまた、ご縁の尊さを活かす人だったということでしょう。

人の縁組というものは、まさに神業でありなぜこの人と一緒に生きるようになったかは神のみぞ知るかのような神秘的なものを感じます。御互いに一緒に生きることに真摯であり、真心と本気の覚悟で必死に生きていくから絆もまたより一層強くなり、繋がりもまた厚く結べます。

昨日の一円対話の振り返りの中である方が「ここにこなければ私はこんな体験ができなかった、この出会いがなければ私は気づけなかった。一生の宝物にします。」と心を澄ませ素直に仰いました。

今の自分をこれまで育ててくださったのはまさにご縁の御蔭様です。

そのご縁の御蔭様を大切にできる人は、ご縁を一生大事に生きている人です。私自身もこれからもどのような縁組であったとしても、誠実に真心と情熱、本気と熱意で踏み込んで”一緒御縁”の感謝をまわりに御恩返ししていきたいと思います。

人生一生一期一会。

いつまでもご縁のままに歩んで往きたいと思います。

台風が通り過ぎると、とても空気が澄んで空が眩いほどに光り輝いてきます。空に流れた濁流が水と一緒にあらゆるものを風とともに持ち去ってくれます。そのあと、またすべての生き物たちがゆっくりと出てきてはいつものように活動をはじめます。

太古の昔から今までずっと、自然は地球の一部です。

その地球の一部である私たちは言い換えれば自然の分け御魂です。分け御魂とは、その大きなものの一部であるということで地球そのものであるといってもいいのかもしれません。そして地球はまた宇宙の一部です。

そうしてみると、あらゆる気象の変化は私たちであり、そしてあらゆるいきものたちの存在も私たちだと言えます。みんな同じ一つを分け合っているのだからすべてのことに共感する宇宙自然を持っているということです。

これらの宇宙自然の感得というものは、尊敬により顕現します。

西郷隆盛は「敬天愛人」と言いました。

あらゆるものを尊敬し、その真心をもって人を愛すと。

宇宙をはじめすべての目に見えるもの見えないものもすべて尊敬しているか、当たり前のことを忘れて非科学的だとか宗教だとか言う前に本来の人間としての初心を忘れないで生きたいものです。

自然の中に在る分け御魂としての依代になれるよう、真心を澄まして洗い清めその魂を磨いていきたいと思います。

 

世界の平安

全ての出来事というの物は、直接的なものと間接的なもので出来上がっているものです。それは直接目に見えるところと、間接的に観えるものが合わさっているともいえます。人は視野狭窄になると、目に見える直接的なところだけで物事を判断してしまうものです。しかし実際の物事は、目に見えないところの間接的な効果によって顕れてくるものです。

こういうことが分かるには、眼だけではなく心眼のようなものも同時に働かせることで気づけるように思います。そしてその訓練は、内省と振り返りによって行うものです。

例えば、過去のことを思い出すとします。その際、あの過去のことが生じたのは一体何が原因であったかということを見出していきます。すると、あの時の出会いがそうだったとか、あの時の行いが繋がっていたとか、あの時が運命の分かれ道だったとか、様々なことを思い出されます。そして今を見つめると、天の助けがあったとか、実践をしてきたからだとか、生き方が変わったからだとか、夢を信じたからだったとか、様々なことを振り返ります。

そうやって内省と振り返りを通して、人は直接的にも間接的にも、生じたご縁に気づきそのすべてを実感することで出来事や物事を全体を観ることができるように思うのです。もしそのように全体を素直に観ることができるのならば人間は方向を見失うことが少なくなるように思います。いや、言い換えれば人類は方向を見失わないのではないかとも思うのです。

今の時代は、間接的なことに対する意識が失われつつあります。振り返りと内省をする時間がないほどに何か急いでいるような気がしてなりません。別にただ早いという意味ではなく、内省し振り返る時間がなくなってきているのです。

目に見えるところばかりを見て生きるのは忙しくなるだけで思いやりを優先できなくなってきます。本来は、多くの間接的な見守りによって現実の世界は生じてきたのだからそこに対する感謝の心があってこそ御蔭様の有難さに気づけるものです。

一度、眼を半分だけ閉じて心の眼を半分だけ開き、同じ目で全体を丸ごと見つめその偉大な御蔭様に気づけるのなら如何に御縁を結べた思いやりで今につながっているかといった人類の初心をも思い出させていけるように思います。

大切な気づきを共有することで、心の平安も得られ世の中の平安も広がります。何を優先して生きていくか、力強く実践を高めていきたいと思います。

 

人類の未来予測

昨日、新潟のカマキリ博士こと酒井與喜夫先生にお会いすることができました。以前、「カマキリは大雪を知っていた」(人間選書)を拝読し感動してずっとお会いしたいと思っていた方です。

お話をお聴きしていると、その範囲は丸ごと自然全体に及び、カマキリだけに限らずあらゆる生き物たちの声を聴いて未来を予測していました。それは単なる天気予報ではなく、人類の未来の予測といってもいいかもしれません。

人類がこれからどう生きていくか、自然災害に対してどう生き残っていくか、本来の私たちが長年何を大切に暮らしてきたかを考えさせられる機会になりました。

昔から私たちは「民間伝承」というものが口伝でたくさん残っています。それは先祖たちが、長年の自然の観察をもとに分析してきた財産とも言えます。それらはすべてマグレではなく、場数によって得られた智慧です。

例えば、本来の農家の農は、自然に精通している農の農です。今の農は、農学を優先しあまり自然の姿からの洞察を重要視しません。本来の職業の本質は、昔は学ではなく道としてすべてそのもの(自然)と対話する中で磨き上げれてきた智慧集類とも言えます。

道から離れて文字や記憶にある学だけを正しいと信じるということ自体が自然を見失っていった原因ではないかと思います。文字や記憶にないものは、そのものが必死に生きているという現実味です。現場というものは、常に真摯であり必死です。生き残るために必死ですから本来の本能が働いています。今のように平和ボケしてなまってしまったセンスではなく、本来のセンスがハタラキあらゆるものを感受感得できたように思います。

そういう目に見えないものを観る力があってこそ、見えるものを素直に観ることができるように思います。世の中は、常に見える世界と見えない世界が合わさって丸ごと動いています。見える世界ばかりを知って、さもそれだけが正しいと思い込めば見えない世界があることを信じなくなります。もしくは見えない世界だけを信じて、見える世界をなおざりにすると見える世界が知らせてくる兆しすら感じられなくなります。

自然を見つめるとき、それは見える世界と見えない世界の両方”丸ごと”で理解していくのが自然そのものの智慧の理解であろうと思います。そしてそれは、自分の手と足、目と耳、全ての感覚を遣って「カラダ」で理解していくものです。「カラダ」は見える見えないに関わらず、全身全霊で必死ですから本来の智慧を感受できるのでしょう。

それが自然の智慧そのものであり、私たちに具わっている生きる力の源流です。

酒井先生の毎年1万キロに及ぶ、数十年の観察を通した生き方から自然の周波数とは何か、本来の未来予測とは何か、そして結びの中にある声聞縁覚とは何かをもう一度見つめ直す有難い機会になりました。様々なことを学ぶには第一に謙虚さが必要で、その謙虚さは常に丸ごとで自然に寄り添うことを肝に命じたいと思います。

自然界の生き物の中でもっとも自然災害に弱いのが人間ですから、その人間がこの先の気候変動の中でどう生きていけばいいか、子ども達にも自分たちの生き方が譲れるようにさらに実践を高めて精進していきたいと思います。

有難うございました。

本元の味

昨日、ある方にお会いすることができました。ずっと以前から知っている方でしたが、ご縁はいつも不思議で「場・間・和」の織りなす今のタイミングをいただけます。あの頃ではお会いしても全く分からなかったと、今、過去を振り返れば思うものです。

自分が通ってきた道の延長上にいらっしゃる方とのめぐり会いというのは、自分が通っているからこそその存在の価値を認識し、まるで過去と未来が回転します。

改めて道縁の素晴らしさに感謝するばかりです。

人は無意識ですが、風土の魂が宿るのではないかと私は思います。その風土とは、この私たちの住まう土地のことですがいつもそことつながり結ばれているのが私たちのいのちのように思います。

だからこそその自然の中には風土の魂ともいい、そういう人物のことを大和人と呼ぶのかもしれません。私自身の中に流れるその大和魂との邂逅も、道縁によって顕現してきます。

昨日は、ワークショップについてや様々な西洋からの教育手法についてのお話を拝聴することができました。この方の素晴らしいのは西洋から来たものを自分で美事にアレンジし、自ら風土に合うように仕上げていくところです。それはまるで海外の料理を、日本人が日本に合うようにアレンジしまた世界に返り咲かせるかかのように日本の和の精神を存分に取り入れたものに調理していきます。

私が目指した味付けをもう随分と先に現場で実現されており、ただ感動するばかりでした。なぜそうなるのかと内省するとき私が直観したのは、そこに「師弟一体心の境地」を感じました。

これは、日本の職人文化に似ています。師が全身全霊で弟子のことを思い、弟子も命がけで師を思う、その間、まるで自他一体の真心で智慧を受け継ぎます。そのようにして様々なことを結和させたのではないかと、これは智慧の感得力です。

そういうそもそも別であるものを自分のものにしていくチカラというのは、風土の魂や和の心が存分に発揮されたものではないかと私には感じます。そしてそういう人だけが「本元の味」を知っているのでしょう。本元の味を知るからこそ、様々な文化を含有でき異質なものを融和させていくことができるように思います。

本元の味が分かる人物に出会えるというのは、本当に仕合せなことです。
御蔭様の御引き合わせと、めぐり会いに心から感謝しております。

子ども達の未来のためにも引き続きこの縁起と学問を味わい楽しんでいきたいと思います。

本気=徹底

先日あるクルーが断酒をしました。子どもが憧れる大人になるために、自分の憧れる方の自分を優先しようと決心したそうです。決心をした後の、その人の言葉には本気さが滲み出ていました。

人は「本気」になると変わるものです。

その本気というのは何かということはそれぞれの理解ではなんとなく漠然としているものです。昔から本気になったとか、本気になれとか言いますが実際の本気になるとは一体何か、それを少し深めてみたいと思います。

最近人気の松岡修造さんの語録の言葉に「本気になればすべてが変わる」があります。日めくりカレンダーなども、本気を引き出すための様々な語録が集約されて紹介されとても売れているそうです。皆、人は変化に対して自分を変えたいけれど変われないで煩悶としていますからどうやったら変われるかということを悩むものです。

本来、人は人生を丸ごと変えようとするとき、表面ではなく根本から直さなければ本質的に変わりません。その根本とは”心から決める”ということです。心から決めるというのはなんとなくではなく、必ず「徹底」するということがセットになっています。

人がなんとなく徹底できないのは本気ではないからです。やったりやらなかったりすることは本気ではなく、やると決めたら徹底することが本気であるということです。なぜなら本気というのは、「決心」したものだからです。決めたという言葉は、決断した、決心した、決定した、決意したという「思い(信)が立った」状態のことです。

人が「思い(信)を立てた」時、必ずその次の行動として「徹底」があります。

心とは常に一つで、二心などというものはありません。もしも人が一つのことを徹底できないとしたら、それは心が決まっていないからです。あちらがいいかこちらがいいかと迷うとき、それは心が入っていないとも言えます。

心が入った、言い換えれば思い(信)が立ったとき人は実践を徹底することができるように思います。昔から凡事徹底という言葉がありますが、あの凡事は心の姿であり、それを徹底するという意味でしょう。

掃除道で有名な鍵山秀三郎氏が、「凡事徹底」を座右の銘にしています。凡事徹底平凡を非凡に努めるという言葉もあります。これはつまり「心を磨く」ということを本懐にしているからではないかと私は思います。

本気になったかどうかは、その人の徹底ぶりによります。やったりやらなかったりではなくまさに「決めて断った」ことが、その人の本気なのです。その本気は時間をかけてじっくりとゆっくりとまるで悠久の大樹の樹の根のように土中に張り巡らされていきます。そして心を磨き続ける日々の修行や実践によって高まってくるように思います。そして高まり極まる時、その人は本心のままの本当の自分に出会う事が出来るように思うのです。

仲間が本気になっていく姿を見守れるのは有難く、本当に沢山の勇気をいただけます。こういう一人の変化が波打って周りに影響を与えていくような好循環こそが世の中を変えていくチカラになっていくのでしょう。一緒に理念に向かって取り組む仲間があるというご縁が仕合わせそのものです。

最後に応援と励ましを籠めて詩人坂村真民さんの言葉で締めくくります。

『本気になると
世界が変わってくる。
自分が変わってくる。

変わってこなかったら、
まだ本気になっていない
証拠だ。

本気な恋、
本気な仕事。

ああ、人間一度はこいつを
つかまないことには。』

自分自身の決心と決断を支えるのは自分の初心ですから、その時々の初心を常に省みて心を磨いていきたいと思います。

 

 

自然の世界

私たちは無意識に自分の観えている世界が世界だと信じ込んでいます。しかし実際に虫の目や動物の目には同じものが観えているとは限りません。また目がついていないと思われている生き物、菌類や植物でさえその感覚器官を通して観えている世界があるのが実際の世界です。

例えば、色であっても私たちが観ているように花が観えているかどうかは分かりません。それはまるで特別な嗅覚で花のあるところを探し当てる昆虫たちや、生き物の残り香をかぎ分ける動物たちのように私たちには臭わないものでも彼らには臭うのです。

色も同じく、紫外線や毒のあるなし、危険かどうかも彼らはその模様や色で識別しているのではないかと思います。以前、庭先で一緒に暮らしている烏骨鶏の小屋にアシナガバチの巣ができたのでそれを切り取り下に落としたことがあります。もう成虫になり飛べる状態で下に何匹も落ちましたが烏骨鶏はそれを食べようともしませんでした。日頃あらゆる虫を食べるのに、一切食べようとも近づこうともしませんでしたからきっと彼らの持つ臭いや色、模様、何かが気になるのでしょう。

私自身も、昆虫や生き物と触れるとき、なんとなく嫌な予感があるものは毒があったり攻撃的であったり、気分が悪くなったりしたことがあります。無意識ですが、昔は観えていた感覚が残っているのかもしれません。

私たちは知識がなくても本能というものがあります。その本能は、知識を持つ以前から体験や経験、または感覚を進化させて他の生き物と同じように自然界の中で生きていくための智慧として発達発展させてきたように思います。

今になってみたら、人間のみの人工社会の中で森や自然の中にいるわけではないのでそういう感覚は減退していくのでしょうがあの虫たちや動物たちはその感覚がなければ自然では生きてはいけません。

自然に照らせばどのような意識で自分がいるのか、その観えている世界が変わっているということの自覚が必要です。自分が観たい世界があるのなら、その観たい世界に合わせていくことでそれまで観得なかった世界が近づいてくるように思います。そのものを理解するのなら、そのものに近づく努力と実践があってはじめて近づくのでしょう。

自然の智慧は、そのものに近づこうと本能から真似をするところからはじまります。そして本能を呼び覚ますのは、もともとの野生を取り戻していくということです。そしてそれは自然に近づいて自然と共に暮らしていく中で研ぎ澄まされていくのでしょう。知識で暗記する以前の祖神たちは、きっとその自然の世界が当たり前に観えていたのでしょう。

本来の自然の世界が分かるとなってはじめて、あらゆる多様な自分を獲得していくことができるのかもしれません。変化成長のコツはこの自然からの獲得に由るように思います。子ども達のためにも、自然からの学び直しの自己実践を譲り遺していきたいと思います。

 

自然の直観力~観察の智慧~

自然を深め、自然と向き合っていると、自分たちの気づいていないことがまだ沢山あることに気づけるものです。例えば、身近な虫たちのことを観察してみても驚くことが多く、そこから不思議な能力を駆使して自然界を生き残ってきた智慧を学べるものです。

私は幼い頃から虫が大好きでしたから、虫を発見しては観察を愉しんでいました。諺の「一寸の虫にも五分の魂」の意味も、虫たちと直に接していたら自明します。その智慧のすごさと創意工夫と多様性の創造力には感動することばかりです。

虫のことを考えるとき有名な人物に「ファーブル昆虫記」を書いた「ジャン・アンリ・ファーブル」がいます。虫と直に接するということが、如何に人智を超えた智慧を学べるかということに於いて観察の重要性を生き方の実践で示された方でした。

その言葉には「観ることは知ることである」というものであったり、「現実は常に公式からはみ出すものだ」ということであったり、実際に「観察」することが如何に大切であるかということを仰っています。

人はすぐに自分自身の目や手、耳や鼻、五感を使おうとせずに物事を知識を使って分かった気になってしまうものです。しかし真実を知るということは、自分自身を使って観るということです。自分自身で観ることもせずに簡単に分かろうとすること自体が本来の姿を見失わせます。自然本来の学問の在り方にも警鐘を鳴らしているように私は思います。膨大な時間をかけることや、大変で面倒なことや、労苦を惜しまないでからだを動かして観察することこそが何よりも大切であるということを教えてくださいます。

ファーブルはまたこうも言います。

「学者というのは文句を言いたがるものなんだよ。私はこの目で昆虫を観ているんだからね。反対する人は自分で観察してみればいいのだ。きっと私と同じ結果が得られるだろう。」

これは昆虫に限られたものではなく、実践して道を深めてきた人の発言であることはすぐに分かります。文句を言う前に一緒に実践してみれば、同じ結果が観えるということなのでしょう。

虫の世界を知るということは、直接虫に触れて観察することで得られます。そしてそれは虫だけではなく、自然というものはすべて触れて観察し直感するものです。それが本来の自然の道、かんながらの道だからです。

自然を観察し直感する力こそが、虫や草花、動物たちの意識と視野であり自然のちからです。道を知るための自然の学び直しは続いていますが、観察力を磨き、自分の刷り込みを取り払い、自分の意識を変えて子どもたちの未来のためにも、確かなものを伝承していきたいと思います。