持ち味を活かす~一心同体感~

人はチームを考える際に、信不信というものがあるように思います。

そもそも信じている人の組み合わせと、そもそも疑っている人の組み合わせはそのでき上がった関係もまた異なっているのです。これは縁起でもそうですが、常に善因を結んでいく人は善果が得られ、悪因を結んでいくものは悪因を得ます。好循環も悪循環も、その根本にあるのは自らの心ということです。

この自らの心が信であるならば、一つのご縁でもその人の善いところを発見しその人のもっともすばらしいところを尊敬してご縁を結べます。しかし心が不信であるのなら、その人を疑い、その人のマイナスな一面を見て警戒したりしては縁を結べません。如何に自分が先に信じているかは、その後の関係に影響するのです。

先ほどのチームでいえば、不信というものを大前提に心に抱いていると能力だけを補う組織を目指すものです。つまり能力を使い合うためにいるわけだから、能力が足りないところだけを補い合うことでチームをつくるのです。しかし、信を大前提に心に抱いているチームになると、助け合うために一緒にいるのだから御互いの持ち味を活かしあう関係で仲間をつくるのです。

仕合わせな組み合わせというものは、相乗効果があるものです。それは能力の足し算ではなく、一緒にいる掛け算のようなものです。仕事だからと、それぞれが能力だけ合わせて済まそうとするのではなく、家族や仲間が大変だからとその時々で持ち味を活かし合おうとするのです。

この「持ち味が活かせる」という環境というのは、御互いに信が結べ大きな見守りの安心の中で助け合うことを優先するから居心地がよくなっていきます。心が安心した中で何かができるというのは、それだけ自分のもっているちからをすべて出し切ることができお役に立つことができます。逆に心が不安の中でいると、それだけ自分を出し切ることもできずまたお役に立ちにくくなってしまいます。

自分の心の置き所をどうするか、チームの一員として自分が何を優先するかが問われるのです。善いチームになるには、まず信じることが必要です。その信じるというのは、自分の持ち味を活かしてもらえるという安心感、そして自分も周りの持ち味を活かそうとする一体感が要ります。

一体感が持てるのなら、もうそれは役に立つ関係が築けているということです。自分の中にある心はどれだけ一緒一体感を持っているか、その内省と実践による学び、つまり素直と謙虚こそが自分を全体のために役に立て、働く仕合せを実感するための最大のコツだと私は思います。

人は誰かと一緒にやっているとき、その心は一つになります。

その一心同体感であることが本来の和の精神であり、祖親から譲り受けた唯一無二の徳宝です。この徳宝をどう引き出していくか、そして持ち味を活かすか、子ども達の未来のためにもまだまだ実践を積み深めていきたいと思います。

本来の自分を知る道

人間は自分のことが分からなくなるのは、自分のことを気にしているからです。いくら気にしていないと思い込んでいても、自他を分けている時点で自分のことが気になってしまっているものです。

それはまるで空気のように当たり前のものであるし、お腹がすくように当たり前に自分たちの意識に入り込んでいます。この自分というものを間違えることで、人は自分のことが分からなくなるのです。

もっとも身近な自分を気にせずに思いやりの実践ができることが真心です。しかし自分を気にするから真心が発信できずまた自分を気にしてしまったと保身に悩むことがあるものです。

相手を気にするというのは、鏡にして自分が気になっているという事でもあります。自分を気にせずに相手を思いやるのは、自分が相手の立場になって心を寄せて共感している状態になっているものです。

これらの境地に入るには、場数を踏んで自分の真心からの行動を積み重ねていくことで自分を気にしなくてもよくなるようにも思います。このことを思う時、私は宮沢賢治の自戒の文章「雨ニモマケズ」を思い出します。

アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
・・・
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

目指している自分の姿が、自分を超越しているところにあることは行間から感じます。私がなりたいものも、真心の自分です。しかし簡単にはいかず、優しさと強さを発揮できる至誠を盡したかどうかはいつも天に尋ねて内省する日々です。

真心の生き方というのは、自分を気にしなくてもよくなるということなのでしょう。世間では自分を知るために自分探しとか、自己実現とか言葉だけが先行して流行っているようですが人間ですから実際に誰かの役に立つ幸せや働き成長できる仕合せが生きる歓びであり自分という意味を自覚できる道なのでしょう。

もしも誰もが常に真心を盡すことができるのならば自ずから自分のことを自明し、世界では自分の御役目を自覚できてきて世界の中に一人自分が在る倖せに感謝することができるように思います。自分を磨くということは、自分を忘れてしまうということです。無我ともいうし没頭ともいいますが、その境地までいってはじめて真心や見守り合いもまた顕現してくるように私は思います。どう身近な自然の持ち味を活かしていくか、私たちの挑戦はそこに集約されています。

道は無窮、縁ある限り自分磨きは一生涯続いていきます。

雨も風をも丸ごと福にして自然の通り道を愉快痛快に歩んでいきたいと思います。

純粋無垢な真心~素直さ~

この仕事をしながらいつも思うことが素直さの持つ伸びる力です。

伸びている人に共通するのは素直さとはいいますが、その姿を目の当たりにすると本当にこの力の持つ神秘を感じます。誰かが自らの体験で掴んだ智慧を、丸ごと吸収してはそれを活かすことができる力です。

同じように接しても、その人のことを信頼して素直に聴ける関係がある人は言われたことを信じています。頭で疑ったり、知識で推察したりすることなどなく、先に信じているのだから素のままに改善していくことができます。この素のままでいるという関係は信じているということと同じになっているのです。

人はもっとも分からないのが自分のことだとも言えます。

もっとも身近にいるくせに、その自分のことはほとんど自分では分かっていません。むしろ他人に指摘された方が、自分のことはよく分かります。自分で自分のことを勘違いしているから直すことができず、自分のことを理解してくださる信頼できる人に自分のどこを直せばいいかを聴いた方が素のままで直すことができるのです。

なぜ自分のことがもっとも分からないのか、それは自分が錯覚してしまうからです。こうありたいと思ったり、こうあってほしいと考えたり、こうあるべきだと押し付けたりしているうちに自分自身が歪んでいき、素であることよりも無理に自分をつくってしまうのが人間というものです。

しかしそうしてしまうと、自分のことを自分が間違って認識しはじめ、様々なことが無理やり調整していかなければならなくなります。例えば、本来は亀なのに鳥のように空を飛べると勘違いしたり、魚なのに陸を駆け巡るチーターだと勘違いしたり、笑えない話ですが実際にはそんな変なことを繰り返すのが人間です。

それを見た周りは、気持ちはわかるのですがその人ができないことはすぐに察します。しかしそれをその人がなかなか受け止めようとしないから、改善もまた進まないとも言えるのです。

そういう時に、信頼できる人があなたはこうだからと本来の自分の姿を観てくださって、こうしたらいいとその人の徳性に合わせて指導してくれたなら本来の自分に気づくことができるように思います。しかしその徳を聴こうとしていなければどんなに親切に教えてくださっていても聴いてはいませんから気づくこともありません。

人の話を聴く時に「ああ、そうだったのか」と常に聴ける姿勢がある人こそが素直な人です。心の対話を素直な自分と交わすことができ、さらに人とも心の対話を素直にかわすことができる人。そういう人が本質的に素直な人ということなのでしょう。

素直さを持つには、まず心の対話ができること、そして人の話を聴けることができなければ維持することもできません。自分を気にしすぎて周りの評価が気になって、聴く気がない頑固な姿では心の対話からもっとも遠い存在になってしまいます。

常に人との御縁を大切に、他人を尊重しながら自分のことを知っている人に自分を教えて貰い、純粋無垢な真心との対話を続けながら天に向かって自分を直しぐんぐん伸びる生長の仕合せを楽しんでいきたいと思います。

 

気分転換~福楽~

人はストレスというものを抱え込むといいます。このストレスは悪いものだと決めつけている人もいますが、ストレスは良いこともあります。実際のストレスには良し悪しはなく、そのストレスの御蔭で私たちは自己変革に向き合っていくこともできるとも言えます。

過度にストレスをかけてしまうのは、かえって柔軟性を失わせて変化を止めてしまいます。問題はストレスがあるかないかではなく、変化しているかどうかということになるのです。

変化というのは、柔らかな感性が必要です。老子の言う、「柔弱の徳」のように柔らかく嫋やか、しなやかであるものがもっとも変化できるということなのでしょう。それだけ柳に風のように変化を楽しめる境地に入ればストレスもまた感謝になっていくように思います。

そのストレスに対する感覚は、現代ではリジリエンスといって立ち直る力としても注目されています。一流のビジネスマンやリーダーは、ストレスに対するメンタルの持ち様が磨かれているから失敗を恐れず挑戦し、仕事もまたできるようになるというような感じに世間では語られ研修なども増えています。

ストレスの発見者ハンス・セリエ博士は、ストレスとの付き合いのために「気分転換」を大事にしたといいます。

如何に気分転換するか、気持ちを入替えるかで視野が広がり心の余裕をつくることを言いました。よく考えてみると、脳ばかりを働かせ、意識ばかりを一つのことに囚われ、目ばかりで物事を見ていたら次第に息をしなくなってきます。つまり空気を吸わず呼吸をしなくなってきます。

そういう時は、外に出て新鮮な空気を吸うことが大事だということなのでしょう。

正解ばかりを探しては真面目に正しいことをやろうとして常識に囚われ脳みそばかりを使うと、人は呼吸を忘れてしまうかもしれません。呼吸が止まるというのは、脳と心のバランスが取れなくなっているという状態なのでしょう。

ストレスがあるということは、そのストレスをどう転じて福にしていくかということです。様々なストレスは変化の兆しですから、その変化を見逃さずストレスを味わいそれをどう転じて面白くしていくかで呼吸法もまた身に着けていけるように思います。

楽を選ばず、真楽は苦しみの中にありますからストレスの中にこそ本当の楽しみがあると言えます。それは変化の歓びであり、変化の仕合せです。気分転換は、嫌なことを我慢して嫌なことを嫌々やるのではなく、気分転換に初心や本心を優先してあげる心の福筋を如何に鍛錬するかによるのでしょう。

遊び心も笑いも気分転換もまた福筋を鍛錬するための方法論です。

日々を味わい次々にやってくる楽問を選ばず遊び、福を楽しんでいきたいと思います。

見守り合い~人間愛の社會~

昨日、39回目GTの保育環境セミナーが開催しました。

ふり返ってみると、もう13年ほど前からスタートし毎年続けてこれたことに有難い思いとその間ご縁があった先生方が今の現場でご活躍しているのを思うと感慨深い気がします。

見守る保育を通して、子どもたちを見守り、子ども同士で見守り、大人同士で見守り、社會を見守り、未来を見守り、世界を見守る。

この見守ることの実践は、人と人との思いやりを通して何が人間として優先されることで幸せになるかを新たにする「道」のように思います。人間を深く愛するということが具体的にどのようなことを大切に生きることか、生き方そのものが保育そのものになっていますから奥が深いのでしょう。

昨日の藤森平司代表の講演の中で、「見守る保育の特徴は、子ども自身に解決させること。例えば子ども同士のケンカは子ども同士で解決させる。それはゼロ歳からできる。」とありました。これも、子どもを信じ、周りの大人も信じているから可能になりますがそこには深い見守り愛があります。また「その子ができないのなら他の子に頼めるようにする、先生が解決するのではなく将来の為にも子ども同士で解決できるようにする」ともありました。自立もチーム保育というものも、如何に自分が全て解決すればいいわけではなく、周りに頼み合い見守り合う関係をどう築くかということになります。常に「見守り合い」を優先しているのです。

講演を拝聴しながら、保育を通して人々を愛することでどのような社會を目指しているか、そしてどのように社會が平和になるか、同じように見守り合う社會(仁の世界)を築こうとした孔子のことを思い出しました。

孔子は論語でこういいます。

「樊遅、仁を問う。子曰く、人を愛す」〈顔淵篇〉 「子貢、問うて曰く、一言にして以て終身これを行なうべき者ありや。子の曰わく、其れ恕か。」〈衛霊公篇〉。

思いやりとは何か、それは人を愛すること、そして一生行うことは思いやりを実践することだと相手の身になって、相手の立場になって、思いやることだと。

これは「見守り合い」のことだと私には感じます。

最初は省みることもなく、礼も分からず律することもできませんから自分勝手に自分自身の思いしか出てこないかもしれませんが、しかし日々の見守り合いを通して自他の境目がなくなってきて御互いの思いが現れてきます。その思いを互いに大切に尊重していれば次第に思いやりになってきます。思いやりは、常に相手の心に寄り添って相手の立場を慮り御互いに助け合うことで愛が通い合うように思います。子ども達を信じて見守れば、子どもはみんな自然に見守り合いの中にいますから子どもから学んで子どもから自分を観直していけば子どもが創りたい本当の社會を邪魔しないでいられるようにも思います。

人類と人間の可能性を信じるからこそ、見守り合う社會も信じることができるのでしょう。この十数年で周りが変わってきた成長を省みながら、次第に子どもたちが将来築いていく社會が変わっていくのを感じて有難く思いました。

引き続き、志業に邁進していきたいと思います。

 

 

思いやりの根~自分自身の在り処~

人は自分を大切にできる人が周りの人をも大切にすることができます。

もっとも身近な自分自身との付き合い方のことなどは、あまり考えないのでしょうが実際は自分への接し方が他の人への接し方にもなっています。自分に厳しすぎる人は他人にも厳しくなっていきますし、自分を認めない人は周りの人も認めません。自他というものは鏡のように互いに映り込みますから自分の心がどうなっているかを観てはじめて相手の姿が現れます。

自分自身がどうなっているのかを自覚することは、相手をあるがままに受け容れるためにも必要なことのように思います。

しかし人は相手のことを自分勝手な見方で推測しては間違えているものです。相手を思いやるよりも自我自尊心を無理に守ろうとしては自分からみてどう見えるかや自分がどう見られるかばかりを気にしていて相手の気持ちになって相手の立場で物事を感じるという手間を省いてしまうものです。

思いやりというのは、相手がもしも自分だったらと考えて理解していくことに似ています。だからこそ、自分が思う相手がどうこうではなくもしも相手が自分自身ならと立場を置き換えて考えて慮れば次第に思いやりが通じ合っていくように思います。

その際、自分の心が鏡のように澄んでいるのなら相手の心に通じ合えますがもしも自分の心が感情や先入観で濁っていたら自他が見えなくなるのかもしれません。

自分自身が相手の立場になるのは、相手に共感することができるからです。この共感する力があるというのは、思いやることができるとも言えます。すぐに共感して泣いてしまったり、すぐに共感して感動するのは、その心に「思いやりの根」があるからです。

その根をどう伸ばしていくかは、自分の心を澄まし相手の立場に立って行動し、思いやりの実践を高めていくことのように思います。自分自身との正対の仕方を、その真心の実践と、誠の姿勢を精進していきたいと思います。

世界を変える一人~三つ子の魂~

世界はいまや情報化社会の中で一つになろうとしています。遠くの国で起きている出来事も、瞬時に情報がニュースなどで入って来るだけではなく、遠く離れた出来事でもすぐに自分たちに大きな影響を与えます。

グローバル経済というものは、経済が世界を巻き込んで発展していくということです。そして今では世界は一つの社会として、どのような世界にするかというビジョンを持つことはこれからのリーダーの役割であり使命のように思います。

だからといって世界を変えるのは、何か大きな力を持つ組織や国家が変えるのではありません。実際に世界を変えるのは、「最初の一人」です。この最初の一人とは、自分を変える人のことです。

一人ひとりが自分の中で世界の中で何をするかを決心し、一人から変わっていくことで周りが変わっていき世界も変わります。これは歴史を観たら自明の理で、世界は一人の発見と発明によってがらりと時代も変わります。

だからこそ、誰かが何とかしてもらおうではなく希望を持ちこんな世界にしたいと行動した一人こそがこれからの人財になっていくように思います。そういう一人をどう育くんでいくかが社會を創る保育者の責任になっていくのでしょう。

またグローバルのことを考えるとき、如何にそれが最小の地域から発せられるものであるかを感じます。グローカルという言葉もありますが、各々の持ち場で如何に自分たちの信念を貫いてやり遂げていくか、そこに世界の一員であるということと多様性を感じます。そして世界を変えるはじまりは人々が思い込んでいる強弱の誤解の刷り込みを如何に捨てるかからはじまります。それは強い権力と思っているものが弱く、弱いと思っているものが真の強さを持つという自然の法理に気づくことだと思います。

バタフライ効果や風が吹けば桶屋が儲かるのように、小さな一人のか弱い力と思い込んでいるものが実際に全世界を変えているからです。

最後に老子の言葉です。

「其の雄を知りて、其の雌を守らば、天下の谿と為る。天下の谿と為らば、常徳離れず、嬰児に復帰す」

老子は、もっとも史上最強であるものを「赤ちゃん」であると言いました。私がこの仕事をすると決めた心もまたここにあります。世界を変える秘訣は三つ子の魂にあると私は信じています。子ども心のままに赤ちゃんの周りの人々との縁起を味わい、小さな一人として自分らしく道を切り開いていきたいと思います。

一同心同体験~偏見を取り払う~

人間は偏見の塊とも言えます。このブログを書いている私自身もある偏見を持っています。普段知っている、分かっているという認識や意識は、そのほとんどが過去に刷り込まれた偏見で、それを自分勝手に頭で理解しているに過ぎません。新しい説が出てくればその説が偏見になって知っていることになる、そういう風に知らないと知ることの間には偏見しかないものです。

しかし実際は、心を澄まし謙虚に聴く姿勢になって自然を眺める虚心坦懐の素直な自分に近づきたいと起きた出来事や体験を深く掘り下げ、その中から本質を掴み取り真っ新な自分を確認していくことが学問修行とも言えます。

実際に偏見が素直に変わるには、自分の偏見を疑うといった謙虚な姿勢が必要のように思います。相手の話を聞いてそれを自分の中の偏見と照らして否定していても、何も学ぶものがなく、相手が言わんとすることを実際に試してみてそれを自らも同体験によって理解するのとは意味が異なります。

この同体験をするというのは、楽をしないということです。体験を避けて通ろうとすれば、知識で補えると勘違いしますが実際には体験で得た智慧を聴くのならその同体験を自分もやってみるしかありません。話や本で見聞きしたのと、体験で真実を掴んだとは理解が異なるからです。

自分がその同体験をしてみて、その中から気づいたことや感じたことをもう一度素直に聴く、その自我や偏見を超えて学ぼうとする姿にこそ虚心坦懐のあるがままの世界が観えてくると思います。

実際に世界というのは、人によって見え方が異なります。それはその人の志の質量であったり、その人の人生のテーマの軽重であったり、同じものを見ていても同じものが観えているということはまずありません。

しかし自分の憧れる人や、自分が尊敬する人、自分が追い求めている人が、どんな風に世界が観えているのだろうかというのは関心があり、その人が観ている世界に近づきたい、その人と同じ体験を一緒に味わってみたいと思うから、今の自分の偏見や刷り込みなどを捨て去っても真っ新な自分のままに新しい自分を創っていきたいと思うのが進化成長のようにも思います。

子ども達は様々な大人に憧れ、自分もああなりたいなと願うものです。その純粋な願いは、自分の偏見が云々とかはなくあるがままに聴く素直で謙虚な姿勢、驚きと感動をもってワクワクドキドキ遊ぶかのように好奇心のままに学びを楽しんでいます。

教育によって、もしくは知識によって、偏見ばかりを身に着けてしまうとそのうち聴く姿勢が斜めになってしまい偏見は増えて磨かれて正論は分かってもあるがままの本質や、虚心坦懐で感じる真実が観えなくなるかもしれません。本来、自分の知らない体験をしている人に出会い、その体験から気づきを教えてもらい、それを自分でやってみて掴むことほど楽しく幸せなことはありません。自分を変えていく面白さと楽しさを知った人は、向上を死ぬまで已むことはありません。そして成長の速度も質量も、偏見がなくなっていく分に比例して益々伸び栄えていきます。

素直さというのは、簡単に言えば楽を選ばず手間暇を楽しむ境地に似ています。メンドクサイことを避けず、大変だと思うことを敢えて味わい、目だけに頼らず、耳だけに頼らず、五感フル動員、まさに全身全霊で同体験で学ぼうと真摯に取り組むことでその素直な姿勢が磨かれていくように思います。

本来の学びの意味は子どものように感動する心を失わないためにあるとも言えます。感動する心、好奇心はその一同心を持つ人との同体験によって増幅していきます。人生は一度きりですからご縁があったことが学びの機縁ですから一緒に考えていくことや一緒に体験していくことを大事に、同体験からでしか観えないその人の矛盾の魂を味わって理解を深めていきたいと思います。

矛盾

矛盾というものはとても大切なもののように思います。

分からないままに理解する力というのは、そのものを自分の価値観や偏見、知識で分かるということではなく、そのままあるがままに理解するとき矛盾を内包することができます。

本来、知識というものは分類分けられたものです。自然界を観ればすぐに分かりますが、空は空とし海は海とす、川や池や湖、それらの境界線を定義しては無理やりに分けて物事を理解しているのが知識とも言えます。その定義などは、単につけた人の物の視方の問題で何かあればコロコロと変わりますから理解の仕方もまた沢山あります。

そういうものを頭で理解しても、分類が分かっただけであってそのものの本質やそのものの真実に覚めたわけではありませんからそれは分かった気になっているだけで本来の真実を理解したわけではありません。

例えば「循環」という言葉があります。自然は循環しているよといくらいっても、循環そのもののことをどれだけ知っているかということが分かっても循環の切り取った一部を表現しても循環が理解できるわけではありません。なぜならあまりにも壮大無辺、あまりにも微細緻密であるため言葉にできないからです。言葉による分類分けというものは、どこまでいっても狭い範囲内での御互いに共通認識を持つための一つのモノサシですからそれを知っていることは真実を理解したこととは異なるのです。

そこで矛盾が必要です。

この矛盾というものは「分からない」ということです。分からないという答えがあるということを学校では教えてはくれません。分からないという答えは教科書にはありません。問題があれば答えがある、答えがあるから問題ができるのです。しかし実際の自然の中に入ったり人生を見つめれば分からないことばかりです。

分からないからできないという発想を持つならば、できたらわかったのだと錯覚してはできないことを卑下したり、できることに傲慢になったりと、結局はその人は分かっていないということが分からない人になってしまうのです。分かった気になるというのは、矛盾を捨ててしまうことです。

矛盾とは、空は空として見ない、海は海として見ない、川も池も湖もそのままの姿で観ることができるということです。それは虫を虫と見ず、草も草と見ず、そのままの自然なままで理解するということです。

それは言い換えれば「刷り込みがない状態」で見えるということです。直感するという言い方でもいいし、感覚が掴むといってもいいかもしれません。

人間は知識が邪魔をし、いちいち太陽をみれば太陽とし雲を見れば雲といいますがじゃあ今朝の雨模様の空をみてこの不思議をどれだけ理解しているでしょうか。「水蒸気が集まって冷えて雨になって降っている梅雨時期の空」などということが分かったからと、この霊妙不思議な宇宙や自然の法則や真理などとは関係がないことは自明の理です。

矛盾を内包し分からないままでいるということは、それだけ本質を追求し本当は何かとわかった気にならない物の視方をして自分の刷り込みを取り払う努力をしていることなのでしょう。

教え込まれたことは何だったか、分かった気になっているものは一体何か、まずは自分自身にそれを問い、本来自分が知りたいことが何か、本当の真実は何か、そういうことを自覚していくことで矛盾の有難さに気づけるように思います。

矛盾のままで観えるというのは単に知識で補えるのではなく、魂のままであることができるようになったと言えるのかもしれません。そのものが観えるというのは、自分自身がそのままの姿であるということですから魂が観ようとしたものが魂のままに観得たということなのでしょう。どれくらい研ぎ澄ませていけばそうなるのか、その人の道の実践と修行次第です。

引き続き、子どもと一緒に真善美を学び続けて好奇心のままに矛盾を楽しんでいきたいと思います。

深さ~道に入る~

昨日、朝の一円対話の中であるクルーの内省の中で「自分の考えですぐに分かったと言わず、聴いてみること」というのがありました。

これは本当に大切なことで、自分の刷り込みを取り払うために必須な実践であろうと思います。では、なぜ人はすぐに分かったとなるのかそれを少し深めてみようと思います。

そもそも人は自分が正しいと思い込んでいるものです。自分の知識や経験から物事を考えますから、自分の知らないことや体験したことがないことは分かりません。何かの物事を判断するとき、理解しようとするのは自分の知識と体験の質量の中から選び出し、きっとこうだろうと”思い込んで”いるものです。この思い込みは、先入観ともいい、自分の知っている範囲で理解できることを言います。

例えば、物事には”深さ”というものがあります。

ある人が、死ぬ気でやりましたといっても、本当に死ぬ目にあった人がその死ぬ目を乗り越えて話した死ぬ気という言葉と、死ぬ目にあったことがない人が知識で知っていて自分の中でこんな感じだろうと自分の中で想定した死ぬ気では同じ言葉を語っても同じことにはなりません。

結局は本当に理解するというのは、その質量が同じであるときにはじめて自分のものになるのです。だからこそ「分かった気になる」というのは大変危険なことなのです。

道を歩む人や、達人といわれる実践者はその質量が自分の想像を超えているものです。なぜならそれは長い年月をかけて実践をし、単なる知識を得ただけではなく体験を積み重ねた智慧を語るからです。この智慧というものは、やった分の量と、本気と決心、覚悟による質によって得られます。

分かったとなってしまうのは単なる知識であり、分からないとして聴くという姿勢は智慧を学ぼうとするからです。本来、実力をつけるというのは知識を持つことではなく智慧を働かせることができるということです。智慧の中に、知識が入ることではじめてその知識は役に立つものになりますから分かっていないことに気づけることが智慧の入口のように思います。

分かった気になっている人は、自分の分かった分で学びが止まってしまいます。分かった気にならないようにと戒めるのは、実践することが前提になっていて智慧を学ぼうとする人です。そうならないように「分かりましたと言わず、やってみます」と常に自戒するのです。その上で近づいたかどうかをその人に実践で得た智慧を語り確かめて掴み取っていくのです。

話を整理すると、「深さ」があるということがあってはじめて分かりましたが言えるようになるように思います。つまり深さが分かりましたと言えるには、自分の浅はかな知識で補おうとするのではなく、それを語る人の経験や体験と同質ものを自分が味わいその智慧を自分のものにしようと自分が貪欲に実践で近づいていくことではじめて真の深さが理解できるように思います。

深さがあることが分かることは、道を歩んでいる証拠です。道に入って道を歩まずということにならないように、常に分かった気になろうとする楽を選ぶ姿勢に気づきその時の自分の心を静かに見つめることが内省の真価のように思います。どれくらい覚者や先達に近づいているか、それを確かめることが愉しくなればもうそれは道楽の深さを味わっている人です。

道を歩んでいる仲間の姿を見守れることは仕合せです。一緒に無二の体験を一期一会に結んでいきたいと思います。