小僧の心~未熟者の真価~

人に限らず、全てのいのちは発達していくものです。例えば、植物の実が未熟から成熟していくように時間を経過することで実もまた完成していくものです。実が熟すときは種が落ちるときとも言えます。

そして人を未熟で例える言葉に「小僧」という言葉がります。

これは仏教語で坊主に対して未熟な修行中の姿のことを言います。小僧といえば、「門前の小僧習わぬ経を読む」という諺もありますが、人は自分の置かれている環境によって、無意識に影響を受けているという意味でつかわれます。ひょっとすると環境で自分がいくら経が読めても小僧は小僧、未熟者であるという自覚がないと自分が坊主と錯覚してしまうこともあるのかもしれません。

社會は結局は、未熟者たちが集まって運営していますが自分が小僧の自覚がなければそれぞれがなぜこんなに大変なのかということにも気づけなくなります。知識偏重の評価ばかりを気にして何かをやってはできたできないと一喜一憂していたら、未熟であることすらも忘れてしまうのかもしれません。

小僧というのは、別の言い方では青臭いや世間知らず、くちばしの黄色いなどの言い方をされますがつまりはそもそもが未熟であるということです。

人はできるできないの二者択一の考え方しかもっていないと自分が強く出るときは人を責め、自分が弱ると自分を責めても、そのものが未熟であることはなんら変わりがあるわけではありません。結局は未熟である自分を認めることがいつまでもできないから、成熟の意味が分からなくなるのでしょう。

本来、未熟という言葉は悪いように使われていることが多いのですが言い換えればこれからの伸びしろがあるということです。まだ伸びる可能性があるという風にも理解できます。成熟していく過程が未熟ですから、自分を責めるのではなく、まだまだ成長の余地があるのだと何が課題かを見つめてその改善を怠らなく努めていけば必ず成熟した人物に近づいていくのです。

人は理想が高く、自分が理想に近づきたいと思うものです。

しかし実際はその理想に対して現実は厳しく、必ず成熟するにはそれ相応の時間を要します。一足飛びにいこうとしても、小僧が経は読めても何も実になっていないではその経の有難さを感じることもないように思います。

本来、小僧の心で学ばせていただけることに感謝することが何ものも責めず自他を許しつつ互いに学び合っていく仕合せな関係のように思います。できない自分を責めたり、できる自分を錯覚するのではなく小僧の心で真摯に学び続けていくことが何よりも責めない実践になるようにも思います。

急いで速く熟したいと焦っては、自他を責め罰し、焦燥感と自己嫌悪感をまき散らしても結局は前に進んでいるわけではありません。目標が高い分、当然苦しみも増えますがそうしているうちにまた責めては今の心から離れてしまえばそれは単なる被害妄想に変わっていくだけかもしれません。

悟れることなど一生ないのだから、今できることで自分の体験したことを周りの人たちのために役立てていくことが責めない実践、福に転じていく生き方なのかもしれません。

自分の体験が必ず誰かのお役に立っている、そう信じて歩むことこそが小僧の心なのでしょう。人生には一切の無駄もないと認めることができるなら、人は一生小僧のままで学び続けられるのかもしれません。私も小僧の心を忘れないように、日々の体験を学びに換えて誰かのためにと役立てていきたいと思います。