昨日、朝の一円対話の中であるクルーの内省の中で「自分の考えですぐに分かったと言わず、聴いてみること」というのがありました。
これは本当に大切なことで、自分の刷り込みを取り払うために必須な実践であろうと思います。では、なぜ人はすぐに分かったとなるのかそれを少し深めてみようと思います。
そもそも人は自分が正しいと思い込んでいるものです。自分の知識や経験から物事を考えますから、自分の知らないことや体験したことがないことは分かりません。何かの物事を判断するとき、理解しようとするのは自分の知識と体験の質量の中から選び出し、きっとこうだろうと”思い込んで”いるものです。この思い込みは、先入観ともいい、自分の知っている範囲で理解できることを言います。
例えば、物事には”深さ”というものがあります。
ある人が、死ぬ気でやりましたといっても、本当に死ぬ目にあった人がその死ぬ目を乗り越えて話した死ぬ気という言葉と、死ぬ目にあったことがない人が知識で知っていて自分の中でこんな感じだろうと自分の中で想定した死ぬ気では同じ言葉を語っても同じことにはなりません。
結局は本当に理解するというのは、その質量が同じであるときにはじめて自分のものになるのです。だからこそ「分かった気になる」というのは大変危険なことなのです。
道を歩む人や、達人といわれる実践者はその質量が自分の想像を超えているものです。なぜならそれは長い年月をかけて実践をし、単なる知識を得ただけではなく体験を積み重ねた智慧を語るからです。この智慧というものは、やった分の量と、本気と決心、覚悟による質によって得られます。
分かったとなってしまうのは単なる知識であり、分からないとして聴くという姿勢は智慧を学ぼうとするからです。本来、実力をつけるというのは知識を持つことではなく智慧を働かせることができるということです。智慧の中に、知識が入ることではじめてその知識は役に立つものになりますから分かっていないことに気づけることが智慧の入口のように思います。
分かった気になっている人は、自分の分かった分で学びが止まってしまいます。分かった気にならないようにと戒めるのは、実践することが前提になっていて智慧を学ぼうとする人です。そうならないように「分かりましたと言わず、やってみます」と常に自戒するのです。その上で近づいたかどうかをその人に実践で得た智慧を語り確かめて掴み取っていくのです。
話を整理すると、「深さ」があるということがあってはじめて分かりましたが言えるようになるように思います。つまり深さが分かりましたと言えるには、自分の浅はかな知識で補おうとするのではなく、それを語る人の経験や体験と同質ものを自分が味わいその智慧を自分のものにしようと自分が貪欲に実践で近づいていくことではじめて真の深さが理解できるように思います。
深さがあることが分かることは、道を歩んでいる証拠です。道に入って道を歩まずということにならないように、常に分かった気になろうとする楽を選ぶ姿勢に気づきその時の自分の心を静かに見つめることが内省の真価のように思います。どれくらい覚者や先達に近づいているか、それを確かめることが愉しくなればもうそれは道楽の深さを味わっている人です。
道を歩んでいる仲間の姿を見守れることは仕合せです。一緒に無二の体験を一期一会に結んでいきたいと思います。