矛盾

矛盾というものはとても大切なもののように思います。

分からないままに理解する力というのは、そのものを自分の価値観や偏見、知識で分かるということではなく、そのままあるがままに理解するとき矛盾を内包することができます。

本来、知識というものは分類分けられたものです。自然界を観ればすぐに分かりますが、空は空とし海は海とす、川や池や湖、それらの境界線を定義しては無理やりに分けて物事を理解しているのが知識とも言えます。その定義などは、単につけた人の物の視方の問題で何かあればコロコロと変わりますから理解の仕方もまた沢山あります。

そういうものを頭で理解しても、分類が分かっただけであってそのものの本質やそのものの真実に覚めたわけではありませんからそれは分かった気になっているだけで本来の真実を理解したわけではありません。

例えば「循環」という言葉があります。自然は循環しているよといくらいっても、循環そのもののことをどれだけ知っているかということが分かっても循環の切り取った一部を表現しても循環が理解できるわけではありません。なぜならあまりにも壮大無辺、あまりにも微細緻密であるため言葉にできないからです。言葉による分類分けというものは、どこまでいっても狭い範囲内での御互いに共通認識を持つための一つのモノサシですからそれを知っていることは真実を理解したこととは異なるのです。

そこで矛盾が必要です。

この矛盾というものは「分からない」ということです。分からないという答えがあるということを学校では教えてはくれません。分からないという答えは教科書にはありません。問題があれば答えがある、答えがあるから問題ができるのです。しかし実際の自然の中に入ったり人生を見つめれば分からないことばかりです。

分からないからできないという発想を持つならば、できたらわかったのだと錯覚してはできないことを卑下したり、できることに傲慢になったりと、結局はその人は分かっていないということが分からない人になってしまうのです。分かった気になるというのは、矛盾を捨ててしまうことです。

矛盾とは、空は空として見ない、海は海として見ない、川も池も湖もそのままの姿で観ることができるということです。それは虫を虫と見ず、草も草と見ず、そのままの自然なままで理解するということです。

それは言い換えれば「刷り込みがない状態」で見えるということです。直感するという言い方でもいいし、感覚が掴むといってもいいかもしれません。

人間は知識が邪魔をし、いちいち太陽をみれば太陽とし雲を見れば雲といいますがじゃあ今朝の雨模様の空をみてこの不思議をどれだけ理解しているでしょうか。「水蒸気が集まって冷えて雨になって降っている梅雨時期の空」などということが分かったからと、この霊妙不思議な宇宙や自然の法則や真理などとは関係がないことは自明の理です。

矛盾を内包し分からないままでいるということは、それだけ本質を追求し本当は何かとわかった気にならない物の視方をして自分の刷り込みを取り払う努力をしていることなのでしょう。

教え込まれたことは何だったか、分かった気になっているものは一体何か、まずは自分自身にそれを問い、本来自分が知りたいことが何か、本当の真実は何か、そういうことを自覚していくことで矛盾の有難さに気づけるように思います。

矛盾のままで観えるというのは単に知識で補えるのではなく、魂のままであることができるようになったと言えるのかもしれません。そのものが観えるというのは、自分自身がそのままの姿であるということですから魂が観ようとしたものが魂のままに観得たということなのでしょう。どれくらい研ぎ澄ませていけばそうなるのか、その人の道の実践と修行次第です。

引き続き、子どもと一緒に真善美を学び続けて好奇心のままに矛盾を楽しんでいきたいと思います。