人間は偏見の塊とも言えます。このブログを書いている私自身もある偏見を持っています。普段知っている、分かっているという認識や意識は、そのほとんどが過去に刷り込まれた偏見で、それを自分勝手に頭で理解しているに過ぎません。新しい説が出てくればその説が偏見になって知っていることになる、そういう風に知らないと知ることの間には偏見しかないものです。
しかし実際は、心を澄まし謙虚に聴く姿勢になって自然を眺める虚心坦懐の素直な自分に近づきたいと起きた出来事や体験を深く掘り下げ、その中から本質を掴み取り真っ新な自分を確認していくことが学問修行とも言えます。
実際に偏見が素直に変わるには、自分の偏見を疑うといった謙虚な姿勢が必要のように思います。相手の話を聞いてそれを自分の中の偏見と照らして否定していても、何も学ぶものがなく、相手が言わんとすることを実際に試してみてそれを自らも同体験によって理解するのとは意味が異なります。
この同体験をするというのは、楽をしないということです。体験を避けて通ろうとすれば、知識で補えると勘違いしますが実際には体験で得た智慧を聴くのならその同体験を自分もやってみるしかありません。話や本で見聞きしたのと、体験で真実を掴んだとは理解が異なるからです。
自分がその同体験をしてみて、その中から気づいたことや感じたことをもう一度素直に聴く、その自我や偏見を超えて学ぼうとする姿にこそ虚心坦懐のあるがままの世界が観えてくると思います。
実際に世界というのは、人によって見え方が異なります。それはその人の志の質量であったり、その人の人生のテーマの軽重であったり、同じものを見ていても同じものが観えているということはまずありません。
しかし自分の憧れる人や、自分が尊敬する人、自分が追い求めている人が、どんな風に世界が観えているのだろうかというのは関心があり、その人が観ている世界に近づきたい、その人と同じ体験を一緒に味わってみたいと思うから、今の自分の偏見や刷り込みなどを捨て去っても真っ新な自分のままに新しい自分を創っていきたいと思うのが進化成長のようにも思います。
子ども達は様々な大人に憧れ、自分もああなりたいなと願うものです。その純粋な願いは、自分の偏見が云々とかはなくあるがままに聴く素直で謙虚な姿勢、驚きと感動をもってワクワクドキドキ遊ぶかのように好奇心のままに学びを楽しんでいます。
教育によって、もしくは知識によって、偏見ばかりを身に着けてしまうとそのうち聴く姿勢が斜めになってしまい偏見は増えて磨かれて正論は分かってもあるがままの本質や、虚心坦懐で感じる真実が観えなくなるかもしれません。本来、自分の知らない体験をしている人に出会い、その体験から気づきを教えてもらい、それを自分でやってみて掴むことほど楽しく幸せなことはありません。自分を変えていく面白さと楽しさを知った人は、向上を死ぬまで已むことはありません。そして成長の速度も質量も、偏見がなくなっていく分に比例して益々伸び栄えていきます。
素直さというのは、簡単に言えば楽を選ばず手間暇を楽しむ境地に似ています。メンドクサイことを避けず、大変だと思うことを敢えて味わい、目だけに頼らず、耳だけに頼らず、五感フル動員、まさに全身全霊で同体験で学ぼうと真摯に取り組むことでその素直な姿勢が磨かれていくように思います。
本来の学びの意味は子どものように感動する心を失わないためにあるとも言えます。感動する心、好奇心はその一同心を持つ人との同体験によって増幅していきます。人生は一度きりですからご縁があったことが学びの機縁ですから一緒に考えていくことや一緒に体験していくことを大事に、同体験からでしか観えないその人の矛盾の魂を味わって理解を深めていきたいと思います。