私たちは無意識に自分の観えている世界が世界だと信じ込んでいます。しかし実際に虫の目や動物の目には同じものが観えているとは限りません。また目がついていないと思われている生き物、菌類や植物でさえその感覚器官を通して観えている世界があるのが実際の世界です。
例えば、色であっても私たちが観ているように花が観えているかどうかは分かりません。それはまるで特別な嗅覚で花のあるところを探し当てる昆虫たちや、生き物の残り香をかぎ分ける動物たちのように私たちには臭わないものでも彼らには臭うのです。
色も同じく、紫外線や毒のあるなし、危険かどうかも彼らはその模様や色で識別しているのではないかと思います。以前、庭先で一緒に暮らしている烏骨鶏の小屋にアシナガバチの巣ができたのでそれを切り取り下に落としたことがあります。もう成虫になり飛べる状態で下に何匹も落ちましたが烏骨鶏はそれを食べようともしませんでした。日頃あらゆる虫を食べるのに、一切食べようとも近づこうともしませんでしたからきっと彼らの持つ臭いや色、模様、何かが気になるのでしょう。
私自身も、昆虫や生き物と触れるとき、なんとなく嫌な予感があるものは毒があったり攻撃的であったり、気分が悪くなったりしたことがあります。無意識ですが、昔は観えていた感覚が残っているのかもしれません。
私たちは知識がなくても本能というものがあります。その本能は、知識を持つ以前から体験や経験、または感覚を進化させて他の生き物と同じように自然界の中で生きていくための智慧として発達発展させてきたように思います。
今になってみたら、人間のみの人工社会の中で森や自然の中にいるわけではないのでそういう感覚は減退していくのでしょうがあの虫たちや動物たちはその感覚がなければ自然では生きてはいけません。
自然に照らせばどのような意識で自分がいるのか、その観えている世界が変わっているということの自覚が必要です。自分が観たい世界があるのなら、その観たい世界に合わせていくことでそれまで観得なかった世界が近づいてくるように思います。そのものを理解するのなら、そのものに近づく努力と実践があってはじめて近づくのでしょう。
自然の智慧は、そのものに近づこうと本能から真似をするところからはじまります。そして本能を呼び覚ますのは、もともとの野生を取り戻していくということです。そしてそれは自然に近づいて自然と共に暮らしていく中で研ぎ澄まされていくのでしょう。知識で暗記する以前の祖神たちは、きっとその自然の世界が当たり前に観えていたのでしょう。
本来の自然の世界が分かるとなってはじめて、あらゆる多様な自分を獲得していくことができるのかもしれません。変化成長のコツはこの自然からの獲得に由るように思います。子ども達のためにも、自然からの学び直しの自己実践を譲り遺していきたいと思います。