自分の磨き方~朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり~

昨日、臥竜塾の塾頭に依頼され高杉晋作の生き様についての談義を一緒に行う機会をいただきました。思えば開塾の時に、草莽崛起と記帳した本の言葉の御縁から繋がっていることを感じ有難い気持ちになりました。

何年もかけて人が成長していく様子や、塾生たちが実力を備えていく姿を拝見することは御互いの学んだ期間を確認することにもなり改めて初心に帰る貴重な時間になりました。

高杉晋作についての印象は風雲児というイメージがほとんどです。しかしその日記を紐解き読み込んでいくと、親を思う親孝行の心境や吉田松陰先生を慕い一所懸命に先生の遺訓を守ろうという誠実な姿が観えてきます。また大義を優先し自分のことなど度外視してでも純粋に道を探究し学を深め実践を愉しんでいる子どものような姿もまた観えてきます。

その時代時代に、死生観を持ち必死に生きた人は学問が成熟しています。高杉晋作は『少年の頃、読んだ本に「学問を成すなら世間から利口と思われる人になるな。世間から愚者と思われる人になれ。」とあったので世間から愚者と思われる人になろうと僕は願った。』とあります。論語にある「古之学者為己、今之学者為人」にあるように、死生観を持つ志士の学問は世間から有名になり評価されるためにするものではなく唯一人自分自身の人格を練り上げるためにあるのでしょう。

本来の学問は道ですから、最初から高杉晋作は道を求め続けていたのでしょう。それが吉田松陰との同行した約1年の薫風により花開いていくのです。本気の師弟関係というものは、その真心に決した覚悟があってのものです。今のように知識をただ教えるための偽りの師弟関係ではなく、その道と志が同じくしてこそ本物の師弟ではないかと私は思います。

吉田松陰は「師道(しどう)を興(おこ)さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。」と言います。

直言直行、必ず実行せよと弟子たちに語りかけるのは即ち本物の師弟の道、つまりは本物の学問を指導しようとしたからに他なりません。このような本気の情熱で語り掛けるなら、その弟子たちの志は養分を得て大きく開花していくように思います。人と人の一期一会の御縁というものは、まるで道中にある大義という糸を通して紡ぎ合っていく一反の織物のようです。

最後に、私が高杉晋作の日記の中で深く共感する一文があります。それは野山獄「先生を慕うてようやく野山獄」と書いた獄中日記の中にあります。

自叙(甲子四月、西海一狂生東行、野山獄北局第二舎南窓の下に題)

「予、下獄の初め既往を悔い、将来を思い、茫然として黙坐し、身を省み心を責む。すでにしておもえらく我れすでに獄に下る。死測るべからず、何ぞ身を省み、心を責むるを用いん。ただ、槁木死灰死を待つのみ。一日、自ら悟りて日く、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。これ、聖賢の道、何ぞ區々たる禪僧の所為を傚わん。よって書を獄吏に借り、かつ読み、かつ感ず。或いは涕涙衣を沾し、或いは慷慨腕を扼す。感じ去り、感じ来り、窮極あるなし。乃槁木死灰に向くは人道に非ざるを知る。しこうして朝に聞き夕べに死すは眞楽量るなしとす。心すでに感ずれば、すなわち、口に発して声となる。これ文、やむをえざる所以を記すなり。」

どんな時であっても人の道は、生死は度外視しても道を学び続けることであるという魂の言葉。つまり朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりという本物の学問を師と一緒に歩んでいたのだろうと感じ、そこには孔子や老子、仏陀もかつては学んだ境地に達しているように感じます。

こういう言葉を実践と内省に由って日々に高め、体験の中で自らを磨き貫いていた高杉晋作の日記の数々には今でも魂が揺さぶられる思いがします。どんなことがあっても龍になると決めた生き方と生き様からもう一度、”自分の磨き方”を見直していきたいと思います。

御縁と機会に深く感謝しています。少し熱が入り過ぎましたが、志士との語り合いはどんなときにも愉しいものです。その場の中に、見守られている有難さを改めて実感しました。

ありがとうございました。