小欲知足~御縁結実~

先日、台風の後の稲の様子が気になっていたのですが何とか無事に乗り越えることができていました。かなり穂をつけていたので、ひょっとしたらと思って心配していたのですがだいぶ倒されながらも地面までは倒れ込んでおらず重たくなった実を支えつつ元気に育っていてくれていました。

昨年の種から苗を育てて今、まさに実をつけていのちの廻りを一巡しますがその間、様々なことを乗り越えて今が存在していることを感じます。これは人間の一生も同じく、ただ育ったのではなくそのプロセスを経て今に育ったということです。齢を経るということはそれだけ沢山の経験の集積によって今があるとも言えます。その人の今は、過去に精進してきた今ですからその一つ一つのプロセスの姿が実になって顕れているとも言えます。

これは御縁が結実したのです。どんな環境の中で、如何に育ってきたか、そして見守られ今があることにただただ感謝の気持ちがこみ上げてくるものです。

また自然農の田んぼでは、他の田んぼと違ってそんなに沢山収穫することができません。特に私の実践田は小規模で一人で作業するのにはちょうどいいくらいですから他と比較するならば余計に少ないと思われるものです。しかし本来は、一年間自分一人で食べる分があるかないかくらいですからこの規模が分相応でもあります。

人間はみんな欲深いものです。「もっともっと」と分相応を思うよりも常に増やしていくことばかりを考えていくものです。昔、アイヌをはじめ自然と共生していた人間たちは取り過ぎることの怖さを自然界にいて身をもって体験していました。欲を優先し乱獲することで絶滅した種も多く、そのことで自然の生態系が崩れて結果的に自分たちが棲みにくくなっていくことを自覚していたからです。これは自然の本能で、生き物たちはその時その分しか食べません、決して取り過ぎることはありません。それは「足るを知る」という自然の本能を持っているからです。

しかし今は、その自然の本能は減退し制限なく拡大し地球規模で資源を貪り世界へと流通させていきます。お金のためにはまだまだ必要になってくるのです。

老子に「足るを知るものは富む」という言葉があります。大金持ちになっても、結局はもっともっとと欲を深めていけばそれは確かに貧しい人の心になっているのかもしれません。自分に相応しいと思う心があるのなら、そのいただいたているものを大切に活かしていこうとするならその心は豊かであるとも言えます。

豊かな心を持つというのは、自然の心のままであり、それが足るを知る心を持っている存在だということです。それはないものねだりをやめ、今あるところをどう深く掘り下げていくかということのように思います。もちろん生きているのだからもっともっとと自己満足で向上していく気持ちも大切なことですが、その根にある自然の姿、感謝の心を忘れては欲に取って代わられてしまうなら自分勝手に自利に走り、周りを苦しめて自他ともに貧しくなってしまうかもしれません。

今の自分が相応しいと思うのは感謝の心が離れていないからです。その上で御恩返しをしていくためにもっと境地を高めていきたい、人格を育てていきたい、思いやりを実践していきたい、自分のいのちのテーマを深めていきたいと願うことが足るを知り、知命・立命・天命というように「自分を誠に盡していく」ことかもしれません。

自分を誠に盡していくためには、足るを知ることが必要です。人間はいただいている御縁に感謝すればするほどに、足るを知ります。足るをしらないのは満足の問題ではなく単に今までのつながりや御縁が観えていないだけかもしれません。心は容を入れますから、心を籠めた生き方を続けていくことで小欲知足を実践していくことが御縁を知るための実践目録かもしれません。

世界の資源の争いは大きくなるばかりで、今も際限なき搾取は続いており世界を巻き込みながら急速に広がりとどまる兆しもありません。人間の欲との折り合いはまだまだ続きますから、自らの実践をもって子どもたちに生き方を譲っていきたいと思います。

 

心の再生~手間暇をかける~

文明の進化は著しく、人工知能をはじめ様々なものが自動化していきます。自分たちが何もしなくてもいい世の中、つまりは勝手に何でもやってくれることを望み、何でも便利にした方がいいという価値観で社会ができあがってきています。

自分が何もしていない間に、何でもやってくれているという考え方はなるべく苦労せずにいたいという人間の欲望なのかもしれません。手間暇がかかるよりも、全自動がいいという考え方は心を感じるよりも、頭でぱっぱと終わらせたいということが優先されているようにも感じます。

全自動で時間が増えるはずなのに、実際の世の中は「忙しい忙しい」と何かしらに追われて生活しているのがほとんどの様相です。心が働いていない状態のままに全自動で事を進めようとするあまり、心が感じるチカラが次第に落ちていくから忙しくなるのでしょう。頭でっかちに頭でぱっぱとさばいているうちに、手間暇をかけられ心を用いられている全体のプロセスやかけられた時間、真心の余韻などを感じにくくなってきたのかもしれません。

そもそもこの「手間暇」というのは、手作りの料理で例えると理解しやすいと思います。手間暇かけて育ててきたお野菜を、手間暇かけた料理で、手間暇かけた準備で大切にもてなす。すると誰でも人はそれを食べているうちに心が満たされるのを感じるものです。もしも材料は合成し機械でぱっぱと加工しレンジでチンしたものを食べても同じようには感じません。舌先で感じる味と、深い味わい、そこには何が異なっているのかということです。

心というものは、映し鏡のように相手の心を感じ取るものです。相手がどんな心で自分を思ってくださっているかは、そのおもてなしや手間暇によって心が通じていきます。しかしそんなことを感じないで頭できっとこうだろうなと推測していくようになれば見た目ばかりを誤魔化してさも手間暇をかけたように見せていくのかもしれません。しかしやっぱり手間暇には敵わず、どんな人でも、いや身近な動植物や昆虫でさえ心を籠めて手間暇かけてくれたことは伝わっているように感じるのです。

これら心を遣わないことを便利だというのなら、この便利は果たして仕合わせであろうかと感じます。快楽ばかりの楽しさの追求ではなく、心が満たされ幸福感を感じる追求があると思います。古来の私たちの先祖たちは、幸福感を大切に一度きりの人生を大切に遣い切ってきたように思います。結果さえよければいいではなく、そのプロセスが一期一会であることを大事に味わってきたのです。それは御縁に活かされていること、多くの見守りやお力添えをいただいていることを有難く感じていたからです。

今の時代、私たち大人は大きなかじ取りの決断の時機に来ているようにも思います。人間にとっての本当の仕合わせとは何か、人間の心をどう育てていくか、子ども達に譲っていきたいものは一体何か、それは自分自身の生き方によって伝承されていくものです。

心の再生は、手間暇によって行われていくのかもしれません。敢えて手間暇をかけることを愉しめる心の余裕を、日々の生活の中に取り組んでいきたいと思います。感謝報恩の実践を高めつつ、思いやりやおもてなしを学び直していきたいと思います。

地の利と地の理~相応の原理~

自然界にはその場所の配置によって土地の性質というものがあるように思います。東西南北という方角や方位というものは、四季があり、太陽が昇り沈むのも一定の方角から行われるものであり、水の流れ、風の流れ、そして生き物たちの生育環境の配置にいたるまでその方位方角と深く関わっているように思います。

例えば、古来の先人たちは都市を考える際は風水理論や陰陽道を意識したといいます。平城京や平安京なども四神相応の土地を考えて造設していったそうです。この四神相応(しじんそうおう)とは東西南北を司る4体の霊獣のことであり、その霊獣は自然形態の象徴とみなされます。東は「青龍」が治めて河川が龍とし、西は「白虎」で街道を、南の「朱雀」は海。北は「玄武」で山が象徴となります。

法隆寺大工棟梁の西岡常一さんの「木のいのち木のこころ」(新潮社)の中にある宮大工の口伝の中の一つにこの四神相応のことが書かれていました。

「四神というのは中国から伝わった四つの方位の神様。
青竜  季節は春 方位は東 の神様
朱雀  季節は夏 方位は南 の神様
白狐  季節は秋 方位は西 の神様
玄武  季節は冬 方位は北 の神様
これを地形で表すと、東の青竜には清流がなくてはならず、
南の朱雀は伽藍より一段と低く沼や沢がなくてはならない。
西の白狐には白道が走っていなければならず、
北の玄武には山丘が伽藍の背景になっていなければならない。
伽藍を建てるなら土地を選び、南に面し北を背にするような造営にしなさい。」

これはまさに地の利のことであり、神社仏閣は神聖な場所に建てることが如何に大切であるかということを表しています。この地の利というものは、自然界に棲まう健康健全な人間生活において大きな影響を与えているように思います。

作物がよく収穫できる場所なども、その相性というものがあります。陰に偏る生き物たちが好む地の利、陽に偏る生き物たちが好む地の利があります。これは家相でもいえることですが、ジメジメしたところには相応の生き物たちがそこに集まり生活をはじめます。また乾いた場所ではまた相応の生き物たちが生活しています。

方位方角というものは、自然の摂理であり、その自然をよく観察していた祖親たちはどのような配置でどのような方位にいることがもっとも地の理に沿っているか、自然循環を邪魔しないか、他の生命を活かし切るか、ということを観察したのかもしれません。

元来この四神相応は中国から由来したものですが、何千年も前から様々な検証を得て、実体験から効果があったものを子孫へ伝承した自然の智慧の一つです。

いくら都会に住んでコンクリートジャングルの中にいるような私たちでも、本来は自然の一部であることは間違いありません。自然の一部である私たちがいくら身勝手に自然と隔絶した都市を構造して東西南北や四季、地の理を無視したにせよ、必ず何らかの影響を持つのは地球の中であることが変わらないからです。

自然を身近に感じるために風水や家相を学ぶことは大切なことかもしれません。人間がそういうものを意識すれば、他の生き物たちもそれぞれの場所で活性化し、共生し貢献し助け合っていくこともできます。人は一人で生きてはいません、周りの中で生きる住まいを与えられて生きられる生き物です。自分たちだけや自分だけで生きているような勘違いをしないように常に四神相応のような大きな眼差しで地の理を学び直していきたいと思います。

 

自己保身~できるできないの刷り込み~

人間には自己保身というものがあります。自分を自分で守るのですが、何を守るのかがその人の保身に出てきてしまいます。本来は、守りたいものがあるから人は信念を持って夢を叶えるのですがその守りたいもの次第では保身になってしまうこともあるのです。

自分というものを理解していくと、自分の中には自分の目指している自分像があります。しかし実際に現実に自分の実力とその現実がかけ離れるとき、周りにみえる自分を実際以上に見せようとしてしまうものです。周りから見られている自分を気にすればするほどに虚栄心は大きくなってしまいます。そうなるとあるがままの自分でいることができるなくなるのです。

人はあるがままの自分であれば、周りはあるがままの自分を観てくれます。しかしもしもあるがままの自分ではない虚栄の自分を見せるならば周りは手が出せなくなるものです。心を開いてオープンでいることは周りも安心していきますが、もしも心を閉ざしてクローズしていれば周りも不安になるのが人間です。

心を開くというのは、自然体になるということですがマジメであればあるほど不自然な自分をもってしまうのかもしれません。自分がいい人と見られたいというのは嫌われたくない、好かれていたいという気持ちですが相手にそれを確認せずに自己保身に傾けば次第に自他のことが見えなくなるのかもしれません。

見られている自分を気にするあまり、見てもらいたい自分ばかりを押し付けては相手が本当に望んでいる自分を与えることが出来ないかもしれません。よく思われたい自分よりも、みんなが喜んでくれる自分の方を好きになることが出来るならその人の周りには自然体の人が増えていくように思います。

そして人間は自分の実力を受け容れることができてから、はじめて人は役割の意味を知り、自分らしく自然体になれるのかもしれません。弱い自分、苦手な自分、強い自分、得意な自分、その時々の人や場、関係の状況の中でありのままのあるがままの自分を受け容れることは今の等身大の自分自身に出会うことです。一生付き合う身近な人が自分自身ですから、素直になって自分にできること、できないことを知ることは社會の中で自立していくためにも大切な課題なのかもしれません。

今の世の中は、便利を物差しに動いている部分もあります。必要不必要も自分勝手に行われ、御縁を大切にしていくようなつながりが失われつつあります。人と人の関係は貸し借りではなく御蔭様、御互い様ですから御縁があるとうことは意味があることであり、それは御互いに必要不可欠だから一緒に出会ったのだからその御縁を信じてあるがままの自分で真心を盡して誠実であることの方を優先していきたいものです。

そしてその真心を盡すことを通して、自分を守るよりももっと大切な初心を守れる強さを持てることができるなら、きっとそこにはいのちを預けられるような無二の仲間との出会いが待っているように思います。

このできるできない刷り込みの心理については、引き続き深めてみたいと思います。

出来る意味

よくできる自分、できない自分という考え方で評価している人がいます。自分ができれば自分が周りから評価され、できない自分では評価されないという考え方です。小さい頃から、できることが価値がありできないことは価値がない、だからこそ努力するようにと刷り込まれてきたのかもしれません。
もちろん人は自分の夢や目標があるからできるようになりたいのですが、何のためにできるようになりたいかということが「出来る意味」に関係してきているように思います。
そもそも出来るというのは何か、古語では「 いでく(出で来) 」といもいいその意味は
現れる、発生する、できるともなっています。本来、他人は誰のチカラになりたい、誰かのお役に立ちたいと強く願い行動することで今までついていなかったチカラを獲得するように思います。
私自身もなぜ色々なことが出来るようになったかと思いかえれば、それは人のためにと役に立ちたいと必死に神様に祈りながら取り組んだことで次第に今までになかったチカラをいただくことができたように思います。そこにはまさに無我の中で出て来たチカラなのかもしれません。
そもそも何のためにチカラがほしいのかという問いがあります。できるようになったからどうなのかという認識が、もしも自分がえらくなりたいからや自分を周りに認めさせたいからや、自慢ができるからということであればそのチカラは果たして本当に「出来る」ことになったのかということを思うと疑問に思います。出来ない理由というものは、そこに自我妄執があるからかもしれません。出来ない自分を責めるのもまたそこに自分勝手な傲慢な姿勢があるからかもしれません。
忘己利他ではないですが、つまらないできるできないの自分を手放して一切を「できない自分よりも、お役に立てる自分がいい。」と開き直るとき、はじめて人は本当の意味で出来る自分に出会えるのかもしれません。
人間には必ず得意不得意がありますから、不得意は助けてもらい得意で恩返しすればいいのです。自分の得意で皆様のお役に立てるからこそ、自分の苦手は皆様にお役にたってもらえばいいという考え方です。出来るのは自分には御役割があると信じているからであり、出来ないのは周りの御役目があることを信じているからです。
自然界をはじめすべては御互いに役割分担をして、御役目を果たしていくことで成り立っている共生と貢献の世界です。貢献したいと願う心がある人は、出来ないということはありません。
できるできないに囚われるのではなく、自分が皆に喜ばれたり皆に御恩返ししたいと行動し、皆の御役に立てているかを求めて行動していけば「出来る」ことに沢山出会い、御力添えをいただくことができるように思います。
自利ではなく利他こそ出来るようになったと、子ども達に見せる背中を確認していきたいと思います。

子どもを尊重する~信じ合う心~

2日間を通してGTサミットでは改めて「見守る保育」とは何かについてその理念を学び直すことができました。一年に一度、初心を確認する上でも理念について学び直せるのはブレていないかを自覚自明するにも大切な機会です。

人はすぐに忙しさの中で自我に呑まれそもそも何のためにといった初心を忘れますから、常に自分の初心を忘れていないかということが一度きりの人生の生きる姿勢に於いて何よりも重要な自己修養になっていくと思います。

亀井勝一郎が「いっさいに対して私は初心でありたい」という言葉を遺しています。もしも人がいつまでも初心のままであるのなら、その人の一生は理想に向かって自分の役割を生き切った美事な人生であろうと思います。初心を忘れさせないメンターや理念を語る実践人の模範がいるということの有難さその恩恵の深さに改めて尊い御縁に感謝の念がこみ上げてきます。

昨日は、藤森平司先生からは「保育は人の生きる道に通じている」という話にはじまり、「見守る」ということについて改めて基本を確認することができました。赤ちゃんから「子ども達は自らで乗り越える力を持っている」だからこそ周りの大人たちが「見えない発達を理解しどう見通し、子ども同士の関係の中でその乗り越える力を身に着けていくか」。そしてその発達が理解でき、見守れるのは相手を信じているからであると仰っていました。

一般的に見守るを見ているだけと批評する人もいますが、それは日本語を知らない人とも言えます。辞書にも「見守る」という意味は「無事であるように注意しながら見る。また、なりゆきを気をつけながら見る。」や「 目を離さずにじっと見る。熟視する。凝視する。」ともあります。

それにやってあげると見守るでよく比較されて、介入するのかしないのかと議論されていることが多いのですが本来の大前提にその人が「子どもを尊重しているか」があるように私には思います。

どんな方法論があったにせよその大前提が”普遍的な道理”(いのちの尊重)に通じているであればいいのですが、実際は単にその人の偏見や、目先の大人の都合や独善的な価値観で相手を不当に扱うから問題になっているのです。それが結局は信じていないことにつながり、子どもが子どもらしく生きていくことができなくなるのです。

子どもが子どもらしく生きていくということは、相手を信じ、相手を尊重して相手の乗り越える力を信じて見守ることのように私は思います。一見、直接的には何もしていないようでもその心では「信じている」という自分自身との正対が求められているのです。

人は信じられることで自分の乗り越える力を信じることができます。そして可能性は信じることで発見発掘され、その人そのものの個性もまた光りはじめるように思います。保育が人の生きる道に通じているのは、それは人生の在り方、生き方に繋がっているからということでしょう。

未来をどんな社會にしていきたいか、それは私たちの願いであり子どもたちを思いやる真心が顕れる夢です。その夢に向かって今は歩んでいる最中ですから、改めて私自身も初心を忘れずに脚下の実践を愉しみながら信じて前進していきたいと思います。

いつもながらの真摯で大義に生きる背中を見せていただき、心から感謝しています。この邂逅の御蔭様に対して、さらなる恩返し恩送りができるよう日々を精進していきたいと思います。

情熱意識~薪をくべ続けること~

昨日、GTサミットが東京で開催されました。全国から同じ理念で保育を実践し高め合う仲間たちが集まり、語り合い学び合いました。総勢90名もの各地域のリーダーが集まると、会場は強い熱気に包まれます。

この熱気というものは、その人の熱意によって発生します。この熱量とは一体何か、これは情熱の意識のことです。これをやろうと決めている人たちや、やり遂げようと精進している人たちが持つ熱意の集積が会場の熱量になっているのでしょう。

人は熱意がなければどんなことをやろうとしても実現できることはありません。いくら能力があるからと、才能があるからと、取り組んでいても、長い年月継続して最期まで遣り抜くには必ず其処にその本人の熱意があります。

京セラの創業者稲森和夫さんも人生の方程式として、「人生 仕事の結果=考え方×熱意×能力」であるといいます。この3つがかけ合わさってはじめて人生が顕現してくるからです。その中で一番大切なのは、やはり熱意ではないかと思います。熱意がなければ一所懸命に取り組むことができません。人はどんなに壁が立ちはだかろうとも熱意があれば禍も転じて福にしていくプラスのチカラを得ることができます。熱意が乏しければ運にも気づけず、その運を伸ばしていくこともできません。熱意というものは、初心を燃やし続ける燃料でありその燈火を絶やさないという覚悟です。

また松下幸之助さんはこうもいいます。

「熱意に関してはだれにも負けないものを持たなくてはならない。知識なり、才能なりにおいては人に劣ってもよいが、熱意については最高でなければならない。指導者に、ぜひともこれをやりたいという強い熱意があれば、それは必ず人を動かすだろう。そしてその熱意に感じて、知恵ある人は知恵を、才能ある人は才能をといったように、それぞれの人が自分の持てるものを提供してくれるだろう。指導者は才能なきことを憂うる必要はないが、熱意なきことを恐れなくてはならない」

できるできないがモノサシの判断ではなく、熱意があるかないかがモノサシの判断であるということ。必ず初志貫徹するという熱意の質量が、今の自分の姿であるということかもしれません。

自分に如何に薪をくべ続けて火を燃やし続けるかは、その人の求めていく熱意と行動が決めていきます。一年に一度でも、熱意ある仲間が集まることでまた情熱に薪をくべてその火を燃やせばまたその燃えた火によってさらに前進していくことができるものです。

燻っている火がまた燃えていくのを見られることも仕合せなことだと思います。子ども達の情熱もまた、周りの大人たちの生き方が薪をくべていくように思います。自分たちの情熱が子ども達に譲られていくことを念じつつ、何よりも強い熱意をもってこの見守る保育を弘げていきたいと思います。

自然共生の本質

自然界には共生関係というものがあります。それは相互扶助の関係で御互いに助け合うことで御互いを守る関係です。これを共生とも言いますが、本来の姿をよく見つめてみると自然は競争ではなく全て共生で成り立っているとも言えます。

例えば、アカマツとマツタケの関係があります。アカマツとマツタケの共生関係は「菌」が関係するということが解明されてます。 外生菌根から土壌中に広がる菌糸を根外菌糸体と呼び、松茸は根外菌糸体が土壌中から吸収した養分の一部を外生菌根を介して松の根に与え、逆に松が光合成で得られた糖分を分けてもらいます。痩せた土地であればあるほどに力を補い合い、御互いが存在しなければ生きることもできないというのが共生の関係です。

そして共生は、単に御互いにメリットがあるからやっているのではなく、一心同体に一生懸命自らのいのちを与え続けて生き切ることにより献身的に助け続けて成り立ちます。このマツタケでいえば、アカマツが育つまでは菌は栄養を貰うことができないのです。それまではじっと信じて耐えて何年もアカマツが育つのを待つのです。

そしてこの共生と子育てはとても似ているように思います。

全ての自然界の生き物たちは子育てを通して共生関係、相互扶助を結びます。鳥であっても、育つまでは大人の雄雌で給餌をして必死で子どもを守り育てます。他にもサバンナの生き物たちも危険を省みず同じように自分のいのちを懸けて子どもを育てます。そうして何年もかかるものもあれば、人間のように十数年~数十年以上かけて子ども時代を見守ります。

その間は、自分の養分を分け与え続けるのです。そうして育ったものから、今度は自分が生きるためのいのちの糧を分けてもらうのです。本来の自然観とは、生死がかかっています。つまりは必死の中で、生きるか死ぬかの中に存在します。そういう中での助け合いとは共生であり、相互扶助の本質です。

人間のように今ではそんなに生き死にが身近になくなってきているから、共生のことが分かりづらくなってきているのかもしれません。頭で妄想している自然は不自然ですから、本来の自然に生きているいのちに私たちは学び直す必要があるように思います。そして自然界が競争ではなく共生である理由は「必死」であるから相互扶助(共生)が存在しているのです。

今の社會は助け合わなくても一人で何とかできるかのような風潮が出てきています。そんな不自然な環境下での助け合いは本来の助け合いの本質とほど遠くなっているようにも感じます。

共生の本質が理解できるのは、必死であることを自覚しているからかもしれません。自然の智慧を学ぶには教科書のように知ればいいのではなく、文字通り自然本来の姿に自分を近づけていくことのように思います。

共生から自分の刷り込みに気付けるように、学び直しを深めていきたいと思います。

知愚一如

森信三先生の人生の中で、生き方を大きく転換した中の言葉で「知愚一如」という言葉があります。それに気づいてから、自分の中の学術研究の意味もまったく変わったしまったほどだったと後述しています。

そもそも「知愚一如」とは何か、それを少し深めてみたいと思います。

まず最初に森信三先生はこう言います。(「知愚一如」 即ち、知者も愚者もひと度、絶対者の前に立てば全く同価値であって根本的にはその間に絶対に優劣がつけられぬということが、真に分かることによって初めてわたくしの哲学体系たる「恩の形而上学」は生まれたわけです。(「不尽片言」より))

これは根本にはすべて優劣などはないという意識のことです。そもそも知識というものは知っていることが優れ、より知らないものは劣っているという考え方を持っていては本当の意味で「分かる」ということはありません。これは「分かった気にならない」という言い方を私はしますが、分かるという考えがある以上はその知ることが愚かだということに気づけないということです。

さらに「森信三一日一語」(致知出版)の中でこうも言います。「知っていて実行しないとしたらその知はいまだ真知でないとの深省を要する無の哲学の第一歩は実はこの一事から出発すべきであろうに。」と。

つまり真知とは何か、やろうともしない学ぼうともしないのでは意味がないのではないか。知ることが如何に愚かなことであるかということに気づき、そしてそこから学び方を転換しているのです。これはカグヤで言う「やって内省しなければやらないのと同じ、内省してやらないのでは学ばないのと同じ」というように私は理解しています。

そしてここから「恩の形而上学」という境地に入ります。そこでは「「恩」とは、この自己の一切が、自己を超えたものの力によって与えられ恵まれているのみか、さらに自己の今日に到るまでの一切の歩みもまた、同様に自己を超えたものの力によるとする意味である。」(森信三)

これは次第に真知を実践していく中で、感謝、御蔭様、そして報恩という境地に意識が高まってきたと感じます。私自身、日々に書いている感謝日記が次第に深まっていくたびに御蔭様を経て報恩や報徳の真価に辿りついてきています。世の中の学問や哲学などというものを考える前に、本来のあるべき姿に立ち返り実践をするのなら自ずから明らかになるのが真理というものなのでしょう。

最後に、知愚一如についてもっとも明確に顕されているものを紹介して終わります。それは兼好法師の徒然草の中にある一節です。

『但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。』

真実の人は賢愚得失は存在しないということ、つまりは一切は「無」であるということです。

世の中に、様々な知識の刷り込みがあるからこそ自らの実践を高めて日々に精進し、余計な知識は手放しつつ子ども達と道を味わうためにも自らの感化につとめていきたいと思います。

変化の本質

人生というものは二度ありません。だからどんな時も一期一会であるとも言えます。あの頃はと思い返してみても、あの頃は戻ってくることはありません。その頃に感じたことはやはり一期一会であるのです。そして人生には変化があります。同じ人間がずっと同じままでいるということはありません。人は変わっていくものです。

明治以降に、税金を管理する関係上の法律ができて自分の名前は一生そのまま変わらないというルールが現代になって適応されました。それまでは人は変化に合わせて名前を変えてはそれまでの生き方を変えて新しい自分としてその時代の変化と共に歩んできたと言います。例えば、上杉謙信の場合も虎千代→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→不識庵謙信とその時々の変化に対して名を変えて新しい自分で生きていきました。

つまりは人は変わらないということはないということです。幼年期から少年期、青年期、成人し、壮年を迎え、熟年、老年など、人生は確実に死に向かって前進していくものです。その都度、他人はその状態が変わるのだから変化しないということはありません。不老不死で見た目もいつまでも同じ齢のままということは、生きている以上はありえないことです。人は変わっていくというのは、受け容れることではじめて今の自分に出会いますから変わり続けていく自分を味わっていくことが人生の醍醐味であろうとも思います。

しかし同時に、変わらないものがあります。それは道です。一生涯かけて何度も変化したとしても、いつまでも同じことを実践しているというものがあります。私であればかんながらの道ですが、この十数年で何度も自分の意識は生長し別人のようになったはずなのにいつまでも同じことを続けています。これは別に一生勤めた会社にいるという意味ではなく、一生同じ道を歩んでいくということです。そしてこの道を歩んでいるということは、そういう「生き方」をしているということなのです。

ファーブル昆虫記のファーブルは90歳で亡くなるまで、ずっと昆虫を研究してきました。その間、何度も食べていけない状態が続き、そして何度も引っ越しをしたり職を失ったりしました。しかしそれでも虫の研究は死ぬまで続けています。他にもミミズを一生涯死ぬ直前まで研究した進化論を記したダーウィンもまた大変な状況に何度陥っても遣り続けました。

変わるものと変わらないものがあるのが人間です。

人生は必死ですからどんな人でも使い古されて死に至ります。それは変わり続けていくということの本質です。しかし変わらないのはそこにはその人が持って産まれた理想があります。その理想に対して決めた生き方は、死んでも変わることはありません。その生き方は、どんなに変化してもいつまでも同じ道を歩んでいるのです。

変わるものと変わらないもの、その両輪を円満にしていくことが一期一会に生き切るということなのかもしれません。

出会いがあれば別れがありますが、それは新しい出会いと別れを同伴してきます。その中で一期一会の道を一緒に歩んでいくのだからそこは確かな御縁があります。

子ども達に受け継がれ譲られていくいのちだからこそ、これまでの御恩を忘れずこれからも感謝で共に変化を味わいながら生きていきたいと思います。