永遠のいのち~ヤマトコトバ~

日本には全国各地にその信念で生き切った純粋な方々の余韻が史跡や行跡、言葉に遺っています。同じように生き方を習い、純粋な真心で生きようとしている方々はその場に遺る余韻に自らを重ね合わせて内省をしているものです。

ヤマトタケルの頃より、様々な大義を持って歩んだ志魂はのちのちの子々孫々へ受け継がれてその真心で生きた人たちによってこの風土は守られてきました。その真心はどのようにして知ることができるか、そこにはそれぞれに遺した詩があります。その詩を感じてみれば、その人の純粋な思いが息づいています。その純粋な思いに触れることで、私たちは何百年も前のいのちとも触れ合うことができるのです。

先日、ヤマトタケルのことを思っているとある方の詩に出会うことができました。

三井甲之という方の詩で、「ますらをの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを」というものです。感謝の真心でヤマトのクニをいのり、勇気と大義によって己のいのちを賭してきた、その先祖たちの見守りの御蔭様で今の私たちがあるのを実感できる詩です。

詩を読む真心は純粋透明なものであり、その人の経歴がどうかではなく心のままに純粋自然の感覚が言霊になることで本来のヤマトコトバの美しさに出会うように思います。

ヤマトコトバには日本古来の先祖たちの真心が生きています。そこには感謝や御蔭様、あらゆる御縁を大切につむいできた生き方があり先人たちの願った暮らしがあります。今のように言葉が技術になり氾濫する時代において、真心そのままを言霊にした親祖に詩を通してその真心に通じ合えることは今の私たちのルーツを見つめ直すためにもとても重要なことだと感じます。

その三井甲之さんの『墓碑銘-石にしるすことば』というものの中に、「ヤマトコトバ」の本質が記されているように感じここに紹介します。

コノ石ハ
天地(アメツチ)ノアヒダニアリテ
天地ニツラナリテ
ココニアリ。
コノ石ニ
コトバヲシルス。
人ハ死スレドモ
コトバハ生キテ
イノチヲツナグ。
コノツナガリハ
地上ノサカヒヲコエテ
ヘダテナキ宇宙ニヒロゴル
コトバコソ
カギリナキ生命ノシルシナレ。
イマソノコトバヲシルス。
ワガイノチノシルシナリ
ココニシルスヤマトコトバハ。

日本古来のヤマトコトバには永遠のいのちが宿っています。その永遠のいのちはその言霊を語ることにより志が受け継がれていきます。子ども達には一つでも大切なヤマトコトバを語り記していきたいと思います。その魂が生きた証、その志が遺る理由を語り継いでいきたいと思います。

人格を磨く

人間は人格を磨いていく中で、本来の自分の天分を活かしていくことができるといいます。素直になって謙虚になれば物事を受け容れありのままに自分の御縁を生きていくことができるからです。

実際に、どんな仕事でも自分以外の誰かと取り組む仕事は自他を合わせ鏡にして御互いを磨き合っていくものです。鏡の曇りがなく、美しい素直な鏡と合わさるなら自分の美しい素直な部分が投影してきます。もしも濁った鏡と合わせるならより自分が分からなくなります。御互いが合わせ鏡だからこそ、何を心に映していくかというのはその人の素直さに由るのです。そしてその心は生き方によって磨かれますから、人格を高めて自己修養によって鏡をいつも日々に洗い清めていくしかないように思います。

また仕事は同時に互いを磨き合うものです。どの砥石を用いて自分を磨いていくか、何をそぎ落として研ぎ澄まされたものにしていくかは自分の選択が決めるともいえます。砥石選びというものは、謙虚さが必要で素直な心でなければ誤った研ぎ方によりかえって自分を活かせなくなるかもしれません。そしてこの素直な心というのは、全ての基本になっているように思います。

松下幸之助さんに「素直な心の十か条」というものがあります。

1.私心にとらわれない
2.耳を傾ける
3.寛容
4.実相が見える
5.道理を知る
6.すべてに学ぶ心
7.融通無碍
8.平常心
9.価値を知る
10.広い愛の心

素直の実践の中で掴んだ感覚を、そのまま十か条にしているように思います。こういう状態の時は素直な心が働いていますということでしょう。そのどれもができそうでできないことであり、人格を磨くために大切な鏡であり砥石であることに気づきます。

例えば、私たちも「傾聴」というものをもっとも大切に実践しています。しかしそこに私心に囚われて「きっと何か理由があるのだろう」と考えず心の余裕をなくしていればすぐに傾聴できずに思い込み決めつけることになってしまいます。自らが聴き福にするか、自らが学んでいるか、自らが受け止めているか、自分に矢印が向いているかとしたとき、はじめて傾聴が始まってきます。

松下幸之助さんは傾聴のことを「素直な心というものは、だれに対しても何事に対しても耳を傾ける心である」といいます。それを黒田長政の「腹立てずの意見会」の実践を紹介し、会合を長政が最期まで続けたのは「一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがある、それは改めなければならないから教えてもらおう、というような謙虚な心をもっていたからではないかと」と言っています。聴くということは自分自身の私心と向き合うことでもあります。自分が聴きたくないことを言われてもそれを素直に受け入れてみる。そのあとは何を行う必要があるかが自明してくるのが人間です。

あるがままに物事が観えるなら、あるがままに対処すればいいのですがあるがままに物事を観たくないからあるがままに対処できないのです。本来、素直さというものは私心を交えずに全体を観るチカラとも言えます。それは自然が自然の循環を邪魔しないことと似ています。素直な心を磨き、人生の最期には自分の天分を全うできたと思えることは本当に倖せなことだと思います。

畢竟、人間はどんな仕事であってもどんな出会いであっても御互いに人格を高めていくことでしか御互いを活かす道はないのかもしれません。しかしそういう切磋琢磨できる同志がいることは人格を磨きたいといった素直の心があるから出会えるのでしょう。御縁の中に「素直」であることを第一義に、常に子どもから学び直していきたいと思います。

貝殻~宿る美~

貝磨きの御縁から貝殻の美しさについて考える機会がありました。なぜ貝殻が美しいのか、その貝を磨くことが一体何かということをここで書いてみようと思います。

私の中での貝磨きというのは、魂磨きと同じ意味です。魂磨きとは「自分に宿っているものを発掘し発見していくもの」とも言えます。私たちもカラダを依代に宿る魂であり、すべてのいのちには等しく魂がありますからその魂を引き出していくことは自分の存在を確認していくことであり何のために生まれてきたのかを知る旅でもあります。

貝殻の美しさは、その本質に魂が宿っています。貝殻は貝の時、貝のいのちを守るために存在したものです。貝は一生を海で過ごし、長いものでは何百年も生きるものもいます。波に揺られ、海のリズムで壮大に生き使い古された貝殻にその生きたものの魂が宿っているからです。私にとっての貝殻は「宿」であり「故郷」です。

あのヤドカリ(宿借)も、宿主が死んだあとの宿を借りその魂を継承して活かしていきます。古語では「カミナ」という響きを持ち、宿に由るいのちではないかと私は思います。

この宿の美しさは『使い古された美』に由るものです。使い古されれば使い古されるほどに、次第に光り輝いていく美しさ。それは魂が磨かれて磨き貫かれた中にある「毘」とも言ってもいいかもしれません。これを「直毘霊」といい、古人はその直毘魂を引き出していくことが大義に生きることであるとも言いました。

貝殻の美しさは、その貝殻に宿された魂があることです。

魂が遣ったものは、どんな古いものでも素晴らしく光り輝きます。そしてご縁を観てそのご縁を大切に活かすものが顕れればそのいのちは新生していきます。まさしく温故知新に宿る美、「カミナ」するのです。かんながらの道の一つに、貝が顕れたのはその「カミナ」が道を導く存在だからかもしれません。

原始の海、原始の親祖たちは貝殻に魂が宿るのを知覚することができたからこそ装飾したのでしょう。海と共に美しく生きた貝殻に、自分の魂を重ね合わせて魂磨きを行っていたのかもしれません。

御縁の世界は、かつて使い古された中に生きた魂が宿る世界を知ることに似ています。目に見えない歴史をつむぐことは、目先の生だけを貪らない生き方を実践していくことに似ています。貝殻をカラダに纏うことは先祖代々から磨かれてきたいのちをそのままに譲っていくといった「かんながらの道」を体現することに似ています。

貝の御縁を大切に、その毘と美についてさらに深めていきたいと思います。

神話の歴史~ヤマトゴコロ~

昨年からの貝磨きをキッカケに海との関わりが増えてきています。私たちは先祖には縄文時代の前に貝文時代というものがあったことが分かっています。貝殻を使って土器に文様を刻み、貝殻の装飾品を用いて黒潮を活かして交流をしていた時代です。

忙しさの中で1万年以上前のことなど思い出すことも少なくなってきていますが、先祖たちは山と海の間で、狩りをし魚を釣り、山菜を採り、貝を食べ、自然の変化の中で暮らしを育み私たちにそのいのちを繋いできました。

その前の時代はどうだったか、私たちのはじまりはどこからかは誰にもわかりません。しかし神話の中で、私たちがどのように誕生したのかを想像することはできるのです。日本書記や古事記の神話には、高天原神話、出雲神話、日向神話と分かれています。その中にある物語から、私たちの先祖が子孫へ伝えたかった歴史を感じることができます。

もしも文字や記録することができない時代に私たちがいるとします。するとどのように伝承していくでしょうか。私たちには本能がありますから、言葉や記憶に頼らなくても生きてはいけます。動物たちが自然に子育てするのも、生き物たちが自然に食べ物を見極めるのも、環境に合わせて移動するのも本能です。本能は自然と対話して、自然を物語として感受することができます。その自然がどうなっているのかを、先祖たちは自分たちの体験から遺して理解してきたのかもしれません。

日向神話では、神武天皇は山幸彦と海神の娘、玉依姫から誕生します。そして大和に移動してクニが誕生していきます。短い物語の中で、何が結ばれてその結ばれる中で何があったのか、そこに今につながる理由が存在します。複雑ではなくとてもシンプルな話の中には、膨大な量の情報が籠められています。

今のように言葉が氾濫する時代に生きているのが私たちですが、もしも自然の中で暮らしていくなら私たちはそんなに言葉や記憶は必要ないのかもしれません。自然の恩恵の中で活かされていく私たちですから、自然の依代を持ち、自然に見守られる中で暮らし続けることができる仕合せに生きていたはずです。

人間が自然から離れてだいぶ経ちますが、私たちの心のふるさとのことを思い出せるでしょうか。そのキッカケに海があり、山があり、貝があり杜があり、原始の頃のことを語る様々な自然がまだ残っています。

子ども達には、言葉や文字ではない神話の歴史、その自然の言霊(ヤマトゴコロ)を感じる心を伝えていきたいと思います。私たちが刻んだ歴史は、すべて自然との共生の中に存在します。授かってきた御縁に感謝できるままに、神話の物語を深めてみたいと思います。

 

個性=人間性~助け合う社會のために~

個性というものについて昨日も書きましたが、個性は人間性を優先するためになによりも大切なものです。人間性が個性ですから個性を排除するというのは人間性を排除するということです。人間がロボットやゾンビのようになるのもまた、その個性を排除することで行われていきます。

個性とはその人そのままの姿ですから、それをみんなと同じにするというのは個性を否定するということです。人間は自分得意不得意がカラダにも出てきていますし、顔にも、性格にも、特長にも表れて出ています。それは観方によれば、それを活かして使ってほしいというアピールでもあるのです。それを長所ともいい、その長所を伸ばしてあげることで人はみんな役に立つ仕合わせに出会います。仕合わせとは助け合いの中で得られるものですから、自分の長所が皆に喜んでもらうことほど自己実現できることはありません。

そしてそれは周りが個性を発見、発掘することも大事ですがその本人が個性を出していかなければ周りに貢献していくことが難しくなります。長い時間をかけて個性を否定される教育を受けてきたり、自分自身で個性をなくしていくような生き方をしてきたら自分自身に気づかずに新しい自分にも出会えません。

それではどうやって個性を引き出すかということです。

それは「己に克つ」ということです。人は自我欲を乗り越えて、自分都合を度外視して私的な自分を手放して己の目的や信念、初心、理念を優先することで己に打ち克つことできます。そうやって己に打ち克ち続けることで次第に個性は磨かれて発揮されていくものです。個性が出てくれば、次第に周りがその個性に自分の個性を合わせて協力していくことができるようになります。

個性は己に克った集積により磨きだされていきます。世の中で活躍する人たちや、貢献していく人たちはみんな個性が突出しています。そしてその全ての人たちはみんな「己に克つ」ことができている人です。個性が人間性であり、個性を磨くことが人格を磨くということはそういうことです。

人間は生まれながらに唯一の個性をもって産まれてきます。それは指紋が一人として同じ物がないように、顔が同じ顔がないように個性を何よりも尊重します。その個性を尊重することが本来の「人権」であり、それは単になんでも私物化する自分の権利のことではないのです。

だからこそ人権を尊重するために、産まれてきたままの異なりを否定せずに認めることが子ども一人ひとりの発達を尊重するということになるのです。私たちの提案するミマモリングプラスというのはそういう哲学と思想、実践の中から開発されてきたものです。

個性豊かな仲間たちを増やして、百花繚乱の美しい思いやりのある社會を子どもたちに譲っていきたいと思います。

協力ができて一人前~自立の本質~

人間だけではなくあらゆる生き物には個性があります。個性とは何か、そういうことをまともに考える機会も少なくなっているように思います。私にとっての個性とは障碍のことですが、いくらその障碍が個性だといっても今では誤解されることばかりです。障害と思っているのは一体誰のことなのか、そして誰にとってのかということに刷り込みを感じます。

先日、「一人前」について考える機会がありました。

人はみんな一人前になれとか、一人前になりなさいと言われて教育をされてきました。私も学校では、一人でできるようになるように周りと同じことができるようにと教育されてきました。ここでの一人前の定義は、「一人になる」ことです。何を持って一人か、それは全体と同じ中の一人という画一的なものになることです。

しかし実際の世の中に出てみると、もちろん大量生産大量消費の一部として自分が存在するのならいいのですが人間は人間の間で助け合い協力しあって生きていきますから、「一人前」になることの定義は他人を頼れるようになることです。つまりは本来人間は一人で生きていくことはないのだから実社會における一人前は周りの協力を得られるよう「一緒になる」ことなのです。そして一緒になるには個性が必要です、個性とはその人が持っている持ち味のことです。私はこれをユニークさと言い換えてもいいます。

ユニークとは何か、それは唯一つの個性、一人前であるという意味です。

個性を否定してユニークさをなくさせることで一人前と定義している社会と、個性を尊重してユニークさを発揮してもらうことで一人前だと定義している社會はまったくその目指すところが異なっています。自分自身であることを我慢して障害というレッテルを恐れてフツウの人でいようと頑張ってみんなと同じようにしていたら、ますます孤独になり一人ぼっちになってしまうかもしれません。それよりも自分自身のままでいいと、今の自分自身を認めて周りの得意不得意を受け容れ周りに頼り自分を活かすことができるならその人は仲間にめぐり会い一人前のハタラキを発揮していくのです。自然の摂理である共生もまた同じく、すべての生き物は一人前として一緒に暮らしていく中で周りと助け合っているのです。

もしもあなたが自分と違う人が気になって矯正させようと思っていたり、何かしらの偏りがあったり見た目がフツウではないと思う人を偏見で決めつけたり勝手に思い込むのは自分の中に歪んだ個人主義の「刷り込み」があるからかもしれません。それをすべて「個性」であると思い直す時、人間は本当の意味で肩の力が抜けて楽になり自他の個性を丸ごと認めることができるように思います。

自分を活かすのも他人を活かすのもまず、その人に具わっている個性がありのままに観えてはじめてできるものです。御互いが得意不得意があるからこそ、御互いに助け合う必要が出て来ます。独りで完璧なっても一人になるだけで、一人前になるわけではないのです。人間の仕合せの根源は、思いやり助け合うことですから協力するということができて一人前であるのは疑いの余地もありません。

子ども達が本来の個性に目覚め、自分らしく豊かに社會で活躍し仕合わせに暮らしていけるように「協力ができて一人前」であることを働き方の実践で示していきたいと思います。

 

自認~手放す実践~

人間は頭がいいと思い込んでいても実際はおかしなことをしていることが多いものです。人間の半分には理念や初心、本心といった自分もいますが同時にそうではない動物の欲のようなものもあります。遠くを観ては本来の将来像を思い近づいていく自分と、目先のことに執着して囚われる自分もいます。

そういう時は、大切なものや理念をどれだけ優先できるかということや如何に己の我執を手放していくかということが大事になっていくのでしょう。

昔、猿を題材にした話を聴いたことがあり「手放す」ことを考える際の参考になります。

一つ目は「ひょうたん猿」の話です。

「アルジェリアのカビール地方の農民は、ひょうたんを木にしっかりとくくりつけ、中に米粒を入れておく。ひょうたんには、サルの手がちょうど入るくらいの穴が開いている。夜になると、サルは木のところに来てひょうたんの穴に手を突っ込み、米粒をわしづかみにする。そして握った手をそのまま引き抜こうとするのだが、きつくて抜けない。手をゆるめればいいのに、そこまで知恵が回らないのだ。夜が明けると農民に生け捕りにされるわけだが、その時のサルは、米粒をしっかり握りしめたまま実に間の抜けた顔をしているという。」(自助論 S.スマイルズ 三笠書房)

一度せっかく掴んだものを手放したくないから囚われてしまうという事例です。これは過去の自分の栄光や、せっかく掴んだ今の環境や状況、財産などを手放したくないばかりに大切なことを見失ってしまうという事例です。

また猿にはもう一つ「朝三暮四」というのがあります。

「この言葉は、およそ2400年前、中国で生まれました。きっかけは、狙公(そこう)という人物と猿のエサをめぐる物語です。猿が大好きな狙公ですが、お金に困り、これまで猿の好きなだけあげていたエサのトチの実を、朝三つ、夕方四つに減らそうとしました。猿たちは怒り出しました。そこで、朝四つ、夕方三つするからと言ったのです。すると、猿たちは、大喜びしました。このように、目先の違いにとらわれて本当は同じ結果なのに気付かないことをたとえて使われます。また、狙公が猿をごまかしたように、言葉たくみに人をだますという意味でも使われます。」(NHK for school)

これも猿は目先に囚われてしまっていて言葉巧みに操られても本当のことがよく分かっていないという意味になります。結局は、その場しのぎで一喜一憂し、本質や理念と向き合うことをやめて何のためにと思い出さない日々を送ってしまうと次第に猿の故事で使われるようになってしまうのでしょう。

これらは何が捨てられないから手放せないのでしょうか、それは自分中心の考え方だったり周りからの評価だったり、自分の持つ自己イメージだったり、プライドや自我というものがほとんどです。一見自分を大事にしていそうで、本来の自分を大事にしていないということが起きているのです。

禅語に「放下著」(ほうげじゃく)というものがあります。

「放下」とは投げ捨てる、ほうり出す等の意味で何ものにも執着をもたず一切をさっぱりと棄て去ることで「著」は動詞につける助辞です。如何に手放すかは、その人が自分自身で自分を認めるしかありません。

自分を認め自分を受け容れるというのは、今の自分を丸ごと受け止めるということに似ています。そこには弱い自分、情けない自分、許せない自分、等々、自分では認めたくもない自分もあるのかもしれません。しかしそれが反転してプライドになり、頑固になり、強い我執になって囚われていくのです。

自分を認めることは大変かもしれませんが、自分自身が自分を認めない限りその人自身を認めることができません。今を生き切るためにも、過去の執着を手放す努力はいつの時代も欠かせないものです。生きていれば常に自分自身が変わっていきますから、そのたびに新しい自分に出会い今を受け容れて前向きに歩んでいくしかありません。

しかし人間は自分がどうありたいかと決めた理想の自分に向かって挑戦し続けていくのなら、いつの日か必ず憧れた自分に近づいていくと私は思います。自分の都合よくはいかないから苦しく辛いのですが、それは次第に自認という諦観、つまりは手放す実践によって本来の自分自身に近づいていきます。

自分が掴んで放さないものは一体何か、静かに自分を向き合ってみて一つ一つを学び直して福にしていきたいと思います。子ども達の勇気になっていけるような生き方を実践していきたいと思います。

 

 

 

 

主人公

ドイツの哲学者アドルフ・ニーチェに「道徳の系譜」というものがあります。詳細まではまだ深めていませんが、新しい世界観で「道徳」ということの本質を表現しています。

人は「道徳を教えられるか」という問いがあります。

私はかねてから道徳教育について疑問がありました。幼い頃から同和問題や差別についてなど教われば教わるほどに自分の中で何が道徳なのかということが理解できなくなった記憶があります。今でさえ、その頃に教えられた差別用語のことをよく覚えていて友人たちが面白がってそれを使えばすぐに全校集会になって徹底的にその言葉を使わないようにと指導されました。しかし疑問に思えば、それを教えたのは学校であってそもそも教えなければ誰も使いもしなかったものです。

そもそも道徳というものは、本来人間に具わっているものです。思いやりの心や真心といったものは、教えてできるものではなく赤ちゃんをはじめ幼い子どもなら誰しももっているものです。その美しいものをみてそれを見守り、それを発展させていくような場・間・和などの生活の中にいれば自ずから然るがままに発揮されていくものです。

そういうものが出てくるのが自然とするか、出ないから教えるのが自然とするか、そこに道徳とは本当は何かということの問いの根幹があるように思います。

ニーチェは道徳の系譜にある「奴隷道徳」の中でこういうことを言います。

「あらゆる人間は、いかなる時代におけるのと同じく、現在でも奴隷と自由人に分かれる。自分の一日の三分の二を自己のために持っていない者は奴隷である。」

自由人というものは、不自由の中で自由であることを自由人というのではありません。自己中心的な自我妄執を捨て去り、原則や理念、初心を優先できるものだけが自由です。三分の二というのは、その日その日に自分と正対し己に克ち越したかということです。己に克つことができるのならその人は自由人と言えます。逆に己に負けてしまっているのならいつまでもその人は我執自我の奴隷になったまま不自由のままに誰かの奴隷になるしかありません。

どんな時代であっても論語にある「克己復礼」こそが仁や道徳の要ということなのでしょう。

またニーチェはこうも言います。

「この世のことは、すべてむなしい! あなたがたは意欲を捨てなければならない!」という教えは、心地よく耳に響く。しかし、これは奴隷になれとすすめる教えである。」

如何に意欲を失わさせるか、それは教えることによって行われます。人格を磨く教育というのは常に己との対話によります。真の教育というものは、世間の教育とはまったく異なります。真の内省を行うものだけが、真の実践を積み重ねていくことができます。それは自分の大切な良心・真心を優先できるかどうかです。

東井義雄先生が『自分は自分の主人公』と題した詩はいつまでも子どもたちに勇気と希望を与えてくれます。

自分は 自分の 主人公
世界でただ一人の自分を
光いっぱいの自分にしていく 責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんか おこすまい
ヤケをおこして
自分で自分をダメにするなんて
こんなにバカげたことってないからな
つらくたってがんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は 自分を創る責任者なんだからな。

子ども達に本当に譲っていきたいものは何か、主人公であることを常に忘れないでいたいと思います。

人間社會

先日、訪問した群言堂本店の洗い場にマハトマ・ガンジーが提言した「七つの社会的大罪というものがありました。そこには今まさに人間が創りあげてしまった道徳的でなくなっている社会的理由が書かれていました。

一、原則なき政治
二、道徳なき商業
三、労働なき富
四、人格なき教育
五、人間性なき科学
六、良心なき快楽
七、犠牲なき信仰

以上の七つですが「原則・道徳・労働・人格・人間性・良心・犠牲」などを見失えばその問題が社會のどこに出てくるかというのを深い洞察によって見抜いています。

例えば、「人格なき教育」でいうと人格を磨こうとしない教育など本来は存在しないということを言っています。論語で、「古の学者は己の為にし、今の学者は 人の為にす」とあるように本来は自己修養のために学問があったものを誰かに知識を教えて収入を得るためのものにすり替わってしまっているということです。偉くなればなるほど、有名になればなるほどに地位や名声、そして富が入ります。そうなってしまうことで人格を磨かない教育が人々に蔓延ってしまうと世の中が混乱しだすであろうということです。

そして「道徳なき商業」なども分かりやすいと思います。自分の稼ぎばかりを考えて人類全体の社會を善くするための商道を商人が行うことをやめたならあっという間に賄賂や詐欺、また中身のない経済が蔓延っていきます。二宮尊徳が「道徳を忘れた経済は、罪悪である。経済を忘れた道徳は、寝言である。」といい、渋沢栄一も論語と算盤とし「道徳経済の一致」をしなければ社會が腐敗してしまうと予測しました。

他にも「人間性なき科学」は、今のクローン技術の話や核兵器、化学加工食品などもそうです。「労働なき富」は、1パーセントの富裕層がマネーゲームで世界の富を蹂躙していることなどでしょうし、「良心なき快楽」は出会い系サイトなどもそうですし、「原則(理念)なき政治」は、今の日本政治の何も決まらないままの混乱した模様のようです。それに最後の「犠牲なき信仰」などは例えたくもないほどです。

マハトマガンジーがかつて洞察したこれらというのは、実際に人間の中に存在するものです。もともと人間には良いも悪いも半分ずつ存在しているとも言えます。何もしなければ動物と同じようであり、それを道徳の育成によって人間らしくなっていくとも言えます。だからこそ社會が人間であるように太古の昔から、私たちは社會を育てて守ってきたとも言えます。

孔子が仁の政治を説いてきたのも、仏陀が慈悲を説いてきたのも、キリストが愛を説いてきたのもまた、人間社會の在り方について深く洞察したなれの果てのように私にも感じます。自分自身が社會の一員としての責任を持ち、如何に人類全体のために自分の徳を磨くために自分を変え続けていくかというのがこの七つの社会的大罪を転じて七つの美徳にしていくことが本来の人間の社會的役割のようにも思います。

時代の終焉が近づくにつれ、これらの人間社會への人類の挑戦はまた繰り返し発生し魂を磨き続ける機会を天から授かります。日々の小さなところから、自分の実践を積み重ねて人類がいつまでも持続できるような社會を一人ひとりの目覚めによって改善していくことが希望のように思います。

子ども達の希望の光になるように、他人のせいにはせず精進していきたいと思います。

 

観自在の実践

先日、「あなたはここにある白い紙の中に、ポッカリ浮かぶ白い雲が見えますか?」というお話をお聴きする御縁がありました。これはベトナムの僧侶、ティクナット・ハンさんの「般若心経」の書き出しに書かれているそうです。

つまり白い紙と白い雲の関係が観通すことができますかという問いです。

手元にある一枚の白い紙は、紙になる前は木、樹木として存在していました。その樹木には水が欠かせません。そしてその水はどこから来たかといえば白い雲からというのです。白い紙が出来上がる間には、様々な人々や自然の恩恵が一つに関わり合いがあって存在しているという真実。その単独で存在するものなどこの世に存在しないという真実のことを『一如(すべては一つ)』といいそれが観えるもののことを観自在菩薩と呼ぶそうです。

私が思う観自在というのは水の姿です。

例えば「水」はあらゆるものに形を変えて存在しています。ある時は雲になり、ある時は、霧、雨、氷、空気、川、海、人、全ての中に入り込み寄り添いつつ形を変えて存在しています。これらは分かれているように感じていますが、実際は偉大な循環一如の中で分かれていることはありません。全てこの地球の中でめぐり続けて存在しています。もしも水がなければ私たちは存在することもできません。私たちが気づいていないだけでその恩恵というものは広大無辺であり実感するとまるで有難い存在に深く感謝できるのです。

人は自分勝手に目に見えるものをすべて自分のもののように偉そうに勘違いしてしまうものです。自分のカラダであっても自分のものだとして大事にせず、自分に纏わるものを自分勝手に解釈しては自分の都合に合わせようとします。その上、自分事のように割り切って他を思いやることもありません。

本来の自分事というのは、全体のことを自分事にしているかという意味であり自分勝手という意味ではないのですが歪んだ個人主義の影響で自分のことしか考えない人が増えたようにも思います。これでは全体を観通すこともできず、御縁の世界に気づくこともまた少なくなるように思います。

今まであったことが有機的につながっており、様々に結ばれ紡がれてきたものの一部として私たちは存在しているのですからその一つとして無駄なものは本来は存在していないはずです。自分に御縁があったものを、自分が天から授かった恩恵をどれだけ大切に生きるかはその信仰の強さにあるように私は思います。

天から授かったご恩を忘れない生き方の実践の中にのみ、観自在菩薩はいらっしゃるのかもしれません。そしてあなたや私たちがその自然の恩恵である観自在菩薩になるかどうかは、その人の感謝報恩に生きる生き方の実践が必要なのでしょう。

感謝報恩という言葉の中には偉大な循環が息づいており、ちっぽけな自我妄執などをはるかに超越した本物の自然存在としての自分自身の恩恵を丸ごと授かってままで活かしているということです。これを親祖たちは「もったいない」といったのでしょう。以前、どこかで見かけた自戒の言がありました。

「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻め」

御蔭様の感謝の存在をいつも忘れないように、そして天から授かっている御恩に報い自分を活かし切るためにも、自我妄執を手放し、子ども達の未来のために観自在の実践を積み重ねていきたいと思います。