ドイツの哲学者アドルフ・ニーチェに「道徳の系譜」というものがあります。詳細まではまだ深めていませんが、新しい世界観で「道徳」ということの本質を表現しています。
人は「道徳を教えられるか」という問いがあります。
私はかねてから道徳教育について疑問がありました。幼い頃から同和問題や差別についてなど教われば教わるほどに自分の中で何が道徳なのかということが理解できなくなった記憶があります。今でさえ、その頃に教えられた差別用語のことをよく覚えていて友人たちが面白がってそれを使えばすぐに全校集会になって徹底的にその言葉を使わないようにと指導されました。しかし疑問に思えば、それを教えたのは学校であってそもそも教えなければ誰も使いもしなかったものです。
そもそも道徳というものは、本来人間に具わっているものです。思いやりの心や真心といったものは、教えてできるものではなく赤ちゃんをはじめ幼い子どもなら誰しももっているものです。その美しいものをみてそれを見守り、それを発展させていくような場・間・和などの生活の中にいれば自ずから然るがままに発揮されていくものです。
そういうものが出てくるのが自然とするか、出ないから教えるのが自然とするか、そこに道徳とは本当は何かということの問いの根幹があるように思います。
ニーチェは道徳の系譜にある「奴隷道徳」の中でこういうことを言います。
「あらゆる人間は、いかなる時代におけるのと同じく、現在でも奴隷と自由人に分かれる。自分の一日の三分の二を自己のために持っていない者は奴隷である。」
自由人というものは、不自由の中で自由であることを自由人というのではありません。自己中心的な自我妄執を捨て去り、原則や理念、初心を優先できるものだけが自由です。三分の二というのは、その日その日に自分と正対し己に克ち越したかということです。己に克つことができるのならその人は自由人と言えます。逆に己に負けてしまっているのならいつまでもその人は我執自我の奴隷になったまま不自由のままに誰かの奴隷になるしかありません。
どんな時代であっても論語にある「克己復礼」こそが仁や道徳の要ということなのでしょう。
またニーチェはこうも言います。
「この世のことは、すべてむなしい! あなたがたは意欲を捨てなければならない!」という教えは、心地よく耳に響く。しかし、これは奴隷になれとすすめる教えである。」
如何に意欲を失わさせるか、それは教えることによって行われます。人格を磨く教育というのは常に己との対話によります。真の教育というものは、世間の教育とはまったく異なります。真の内省を行うものだけが、真の実践を積み重ねていくことができます。それは自分の大切な良心・真心を優先できるかどうかです。
東井義雄先生が『自分は自分の主人公』と題した詩はいつまでも子どもたちに勇気と希望を与えてくれます。
自分は 自分の 主人公
世界でただ一人の自分を
光いっぱいの自分にしていく 責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんか おこすまい
ヤケをおこして
自分で自分をダメにするなんて
こんなにバカげたことってないからな
つらくたってがんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は 自分を創る責任者なんだからな。
子ども達に本当に譲っていきたいものは何か、主人公であることを常に忘れないでいたいと思います。