自認~手放す実践~

人間は頭がいいと思い込んでいても実際はおかしなことをしていることが多いものです。人間の半分には理念や初心、本心といった自分もいますが同時にそうではない動物の欲のようなものもあります。遠くを観ては本来の将来像を思い近づいていく自分と、目先のことに執着して囚われる自分もいます。

そういう時は、大切なものや理念をどれだけ優先できるかということや如何に己の我執を手放していくかということが大事になっていくのでしょう。

昔、猿を題材にした話を聴いたことがあり「手放す」ことを考える際の参考になります。

一つ目は「ひょうたん猿」の話です。

「アルジェリアのカビール地方の農民は、ひょうたんを木にしっかりとくくりつけ、中に米粒を入れておく。ひょうたんには、サルの手がちょうど入るくらいの穴が開いている。夜になると、サルは木のところに来てひょうたんの穴に手を突っ込み、米粒をわしづかみにする。そして握った手をそのまま引き抜こうとするのだが、きつくて抜けない。手をゆるめればいいのに、そこまで知恵が回らないのだ。夜が明けると農民に生け捕りにされるわけだが、その時のサルは、米粒をしっかり握りしめたまま実に間の抜けた顔をしているという。」(自助論 S.スマイルズ 三笠書房)

一度せっかく掴んだものを手放したくないから囚われてしまうという事例です。これは過去の自分の栄光や、せっかく掴んだ今の環境や状況、財産などを手放したくないばかりに大切なことを見失ってしまうという事例です。

また猿にはもう一つ「朝三暮四」というのがあります。

「この言葉は、およそ2400年前、中国で生まれました。きっかけは、狙公(そこう)という人物と猿のエサをめぐる物語です。猿が大好きな狙公ですが、お金に困り、これまで猿の好きなだけあげていたエサのトチの実を、朝三つ、夕方四つに減らそうとしました。猿たちは怒り出しました。そこで、朝四つ、夕方三つするからと言ったのです。すると、猿たちは、大喜びしました。このように、目先の違いにとらわれて本当は同じ結果なのに気付かないことをたとえて使われます。また、狙公が猿をごまかしたように、言葉たくみに人をだますという意味でも使われます。」(NHK for school)

これも猿は目先に囚われてしまっていて言葉巧みに操られても本当のことがよく分かっていないという意味になります。結局は、その場しのぎで一喜一憂し、本質や理念と向き合うことをやめて何のためにと思い出さない日々を送ってしまうと次第に猿の故事で使われるようになってしまうのでしょう。

これらは何が捨てられないから手放せないのでしょうか、それは自分中心の考え方だったり周りからの評価だったり、自分の持つ自己イメージだったり、プライドや自我というものがほとんどです。一見自分を大事にしていそうで、本来の自分を大事にしていないということが起きているのです。

禅語に「放下著」(ほうげじゃく)というものがあります。

「放下」とは投げ捨てる、ほうり出す等の意味で何ものにも執着をもたず一切をさっぱりと棄て去ることで「著」は動詞につける助辞です。如何に手放すかは、その人が自分自身で自分を認めるしかありません。

自分を認め自分を受け容れるというのは、今の自分を丸ごと受け止めるということに似ています。そこには弱い自分、情けない自分、許せない自分、等々、自分では認めたくもない自分もあるのかもしれません。しかしそれが反転してプライドになり、頑固になり、強い我執になって囚われていくのです。

自分を認めることは大変かもしれませんが、自分自身が自分を認めない限りその人自身を認めることができません。今を生き切るためにも、過去の執着を手放す努力はいつの時代も欠かせないものです。生きていれば常に自分自身が変わっていきますから、そのたびに新しい自分に出会い今を受け容れて前向きに歩んでいくしかありません。

しかし人間は自分がどうありたいかと決めた理想の自分に向かって挑戦し続けていくのなら、いつの日か必ず憧れた自分に近づいていくと私は思います。自分の都合よくはいかないから苦しく辛いのですが、それは次第に自認という諦観、つまりは手放す実践によって本来の自分自身に近づいていきます。

自分が掴んで放さないものは一体何か、静かに自分を向き合ってみて一つ一つを学び直して福にしていきたいと思います。子ども達の勇気になっていけるような生き方を実践していきたいと思います。