好循環~実践の強さ~

物事には好循環というものと悪循環というものがあります。これは循環の理の中で如何に循環を理解しているかということが深く関係するように思います。循環を邪魔しないというのは、自分が循環の中に入るということです。

しかし実際は、自我欲や己に負けては循環を邪魔をし謙虚さを忘れては間違いをするのも人間です。素直さや謙虚さというものは、実践を忘れない心があってこそ顕現してきます。いくら頭でわかっていても口先で語っても、一つの実践には敵いません。一つの実践を丹精を籠めて取り組んでいく中でこそ、はじめて循環の中にいる実感を持てるようにも思います。

二宮尊徳は常々、「道は書物にあるのではなく、行いにある」としています。知識で分かったからとそれ以上取り組むのをやめてしまったり、本を読んでは理解したからと深めていくことをやめてしまっているのは道ではないということです。この道もまた循環に関係しますから、大いなる廻りに同化していくためにも日々の小さな実践を積み重ねていくことで道と縁は展開していくように思います。

二宮尊徳はこう言います。

「人、生まれて学ばざれば、生まれざると同じ
学んで道を知らざれば、学ばざると同じ
知って行うこと能はざれば、知らざると同じ
故に、人たるもの、必ず学ばざるべからず
学をなすもの、必ず道を知らざるべからず
道を知るもの、必ず行はざるべからず」

道を知る者は必ず実践しているものだということです、そして道を知らないのは学ばないとの同じで学んでいないのは生まれていないのと同じであると言います。学ぶということは道を実践することであるとはっきり定義しています。

孔子が論語の中で、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」といいます。

最初から苦労なしに学んだ人たちは誰もおらず、みんな自らが苦労を積み重ねてその長いプロセスの中で道を実践し体得して周りの人々のお役に立ったのです。自らの実践を怠り、知識ばかりを増やしては満足していたら道は遠のいていきます。そして循環というものは、自然と同じですが本当に少しずつ動いていきます。頭で考えているようなスピードや頭で思っているような結果はすぐに出て来ません。しかし好循環は、発酵と同じく本当に小さく少しずつ動いては偉大な変化を創造していくものです。

日々のちょっとずつでも小さくても行う実践こそが何よりも偉大なことを実現します。それを二宮尊徳は「積小為大」といい、実現するのに「至誠」「分度」「勤労」「推譲」と言いました。これはまさに好循環の理を語っているということに他ならないと私には思えます。

迷いを断つのは日々の実践への強さが影響するように思います。子ども達のためにも、実践を強く発揮していきたいと思います。