2日間を通してGTサミットでは改めて「見守る保育」とは何かについてその理念を学び直すことができました。一年に一度、初心を確認する上でも理念について学び直せるのはブレていないかを自覚自明するにも大切な機会です。
人はすぐに忙しさの中で自我に呑まれそもそも何のためにといった初心を忘れますから、常に自分の初心を忘れていないかということが一度きりの人生の生きる姿勢に於いて何よりも重要な自己修養になっていくと思います。
亀井勝一郎が「いっさいに対して私は初心でありたい」という言葉を遺しています。もしも人がいつまでも初心のままであるのなら、その人の一生は理想に向かって自分の役割を生き切った美事な人生であろうと思います。初心を忘れさせないメンターや理念を語る実践人の模範がいるということの有難さその恩恵の深さに改めて尊い御縁に感謝の念がこみ上げてきます。
昨日は、藤森平司先生からは「保育は人の生きる道に通じている」という話にはじまり、「見守る」ということについて改めて基本を確認することができました。赤ちゃんから「子ども達は自らで乗り越える力を持っている」だからこそ周りの大人たちが「見えない発達を理解しどう見通し、子ども同士の関係の中でその乗り越える力を身に着けていくか」。そしてその発達が理解でき、見守れるのは相手を信じているからであると仰っていました。
一般的に見守るを見ているだけと批評する人もいますが、それは日本語を知らない人とも言えます。辞書にも「見守る」という意味は「無事であるように注意しながら見る。また、なりゆきを気をつけながら見る。」や「 目を離さずにじっと見る。熟視する。凝視する。」ともあります。
それにやってあげると見守るでよく比較されて、介入するのかしないのかと議論されていることが多いのですが本来の大前提にその人が「子どもを尊重しているか」があるように私には思います。
どんな方法論があったにせよその大前提が”普遍的な道理”(いのちの尊重)に通じているであればいいのですが、実際は単にその人の偏見や、目先の大人の都合や独善的な価値観で相手を不当に扱うから問題になっているのです。それが結局は信じていないことにつながり、子どもが子どもらしく生きていくことができなくなるのです。
子どもが子どもらしく生きていくということは、相手を信じ、相手を尊重して相手の乗り越える力を信じて見守ることのように私は思います。一見、直接的には何もしていないようでもその心では「信じている」という自分自身との正対が求められているのです。
人は信じられることで自分の乗り越える力を信じることができます。そして可能性は信じることで発見発掘され、その人そのものの個性もまた光りはじめるように思います。保育が人の生きる道に通じているのは、それは人生の在り方、生き方に繋がっているからということでしょう。
未来をどんな社會にしていきたいか、それは私たちの願いであり子どもたちを思いやる真心が顕れる夢です。その夢に向かって今は歩んでいる最中ですから、改めて私自身も初心を忘れずに脚下の実践を愉しみながら信じて前進していきたいと思います。
いつもながらの真摯で大義に生きる背中を見せていただき、心から感謝しています。この邂逅の御蔭様に対して、さらなる恩返し恩送りができるよう日々を精進していきたいと思います。