自己保身~できるできないの刷り込み~

人間には自己保身というものがあります。自分を自分で守るのですが、何を守るのかがその人の保身に出てきてしまいます。本来は、守りたいものがあるから人は信念を持って夢を叶えるのですがその守りたいもの次第では保身になってしまうこともあるのです。

自分というものを理解していくと、自分の中には自分の目指している自分像があります。しかし実際に現実に自分の実力とその現実がかけ離れるとき、周りにみえる自分を実際以上に見せようとしてしまうものです。周りから見られている自分を気にすればするほどに虚栄心は大きくなってしまいます。そうなるとあるがままの自分でいることができるなくなるのです。

人はあるがままの自分であれば、周りはあるがままの自分を観てくれます。しかしもしもあるがままの自分ではない虚栄の自分を見せるならば周りは手が出せなくなるものです。心を開いてオープンでいることは周りも安心していきますが、もしも心を閉ざしてクローズしていれば周りも不安になるのが人間です。

心を開くというのは、自然体になるということですがマジメであればあるほど不自然な自分をもってしまうのかもしれません。自分がいい人と見られたいというのは嫌われたくない、好かれていたいという気持ちですが相手にそれを確認せずに自己保身に傾けば次第に自他のことが見えなくなるのかもしれません。

見られている自分を気にするあまり、見てもらいたい自分ばかりを押し付けては相手が本当に望んでいる自分を与えることが出来ないかもしれません。よく思われたい自分よりも、みんなが喜んでくれる自分の方を好きになることが出来るならその人の周りには自然体の人が増えていくように思います。

そして人間は自分の実力を受け容れることができてから、はじめて人は役割の意味を知り、自分らしく自然体になれるのかもしれません。弱い自分、苦手な自分、強い自分、得意な自分、その時々の人や場、関係の状況の中でありのままのあるがままの自分を受け容れることは今の等身大の自分自身に出会うことです。一生付き合う身近な人が自分自身ですから、素直になって自分にできること、できないことを知ることは社會の中で自立していくためにも大切な課題なのかもしれません。

今の世の中は、便利を物差しに動いている部分もあります。必要不必要も自分勝手に行われ、御縁を大切にしていくようなつながりが失われつつあります。人と人の関係は貸し借りではなく御蔭様、御互い様ですから御縁があるとうことは意味があることであり、それは御互いに必要不可欠だから一緒に出会ったのだからその御縁を信じてあるがままの自分で真心を盡して誠実であることの方を優先していきたいものです。

そしてその真心を盡すことを通して、自分を守るよりももっと大切な初心を守れる強さを持てることができるなら、きっとそこにはいのちを預けられるような無二の仲間との出会いが待っているように思います。

このできるできない刷り込みの心理については、引き続き深めてみたいと思います。