先日、台風の後の稲の様子が気になっていたのですが何とか無事に乗り越えることができていました。かなり穂をつけていたので、ひょっとしたらと思って心配していたのですがだいぶ倒されながらも地面までは倒れ込んでおらず重たくなった実を支えつつ元気に育っていてくれていました。
昨年の種から苗を育てて今、まさに実をつけていのちの廻りを一巡しますがその間、様々なことを乗り越えて今が存在していることを感じます。これは人間の一生も同じく、ただ育ったのではなくそのプロセスを経て今に育ったということです。齢を経るということはそれだけ沢山の経験の集積によって今があるとも言えます。その人の今は、過去に精進してきた今ですからその一つ一つのプロセスの姿が実になって顕れているとも言えます。
これは御縁が結実したのです。どんな環境の中で、如何に育ってきたか、そして見守られ今があることにただただ感謝の気持ちがこみ上げてくるものです。
また自然農の田んぼでは、他の田んぼと違ってそんなに沢山収穫することができません。特に私の実践田は小規模で一人で作業するのにはちょうどいいくらいですから他と比較するならば余計に少ないと思われるものです。しかし本来は、一年間自分一人で食べる分があるかないかくらいですからこの規模が分相応でもあります。
人間はみんな欲深いものです。「もっともっと」と分相応を思うよりも常に増やしていくことばかりを考えていくものです。昔、アイヌをはじめ自然と共生していた人間たちは取り過ぎることの怖さを自然界にいて身をもって体験していました。欲を優先し乱獲することで絶滅した種も多く、そのことで自然の生態系が崩れて結果的に自分たちが棲みにくくなっていくことを自覚していたからです。これは自然の本能で、生き物たちはその時その分しか食べません、決して取り過ぎることはありません。それは「足るを知る」という自然の本能を持っているからです。
しかし今は、その自然の本能は減退し制限なく拡大し地球規模で資源を貪り世界へと流通させていきます。お金のためにはまだまだ必要になってくるのです。
老子に「足るを知るものは富む」という言葉があります。大金持ちになっても、結局はもっともっとと欲を深めていけばそれは確かに貧しい人の心になっているのかもしれません。自分に相応しいと思う心があるのなら、そのいただいたているものを大切に活かしていこうとするならその心は豊かであるとも言えます。
豊かな心を持つというのは、自然の心のままであり、それが足るを知る心を持っている存在だということです。それはないものねだりをやめ、今あるところをどう深く掘り下げていくかということのように思います。もちろん生きているのだからもっともっとと自己満足で向上していく気持ちも大切なことですが、その根にある自然の姿、感謝の心を忘れては欲に取って代わられてしまうなら自分勝手に自利に走り、周りを苦しめて自他ともに貧しくなってしまうかもしれません。
今の自分が相応しいと思うのは感謝の心が離れていないからです。その上で御恩返しをしていくためにもっと境地を高めていきたい、人格を育てていきたい、思いやりを実践していきたい、自分のいのちのテーマを深めていきたいと願うことが足るを知り、知命・立命・天命というように「自分を誠に盡していく」ことかもしれません。
自分を誠に盡していくためには、足るを知ることが必要です。人間はいただいている御縁に感謝すればするほどに、足るを知ります。足るをしらないのは満足の問題ではなく単に今までのつながりや御縁が観えていないだけかもしれません。心は容を入れますから、心を籠めた生き方を続けていくことで小欲知足を実践していくことが御縁を知るための実践目録かもしれません。
世界の資源の争いは大きくなるばかりで、今も際限なき搾取は続いており世界を巻き込みながら急速に広がりとどまる兆しもありません。人間の欲との折り合いはまだまだ続きますから、自らの実践をもって子どもたちに生き方を譲っていきたいと思います。