思いの結晶~ひと・つなぐ・いのち~

私たちは日頃は意識していませんが、それぞれに役割というものを担いそれぞれに活動することで社會を維持しています。例えば、私たちがお金を出してレストランで食べる料理一つ一つまで、野菜は種から実をつけるまでお世話する農家がいて、それを集めて出荷する方がいて、またそれを輸送する方がいて、料理する人がいて私たちは美味しいものを食べることが出来ます。

この一つ一つ何かが欠けても成り立たず、私たちはそれぞれに自分の役割を果たすことで周りの社會を活かすことができます。

明日駅伝大会に参加しますが、この駅伝にも同じような意味を感じます。それぞれに自分の役割を果たすからこそ、みんなでつないだ「思い」を、誰かに届けることが出来るのだと。駅伝は、それぞれは一人ひとりでそれぞれの与えられた場所を走ります。走っている最中は、自分の分担したものを果たすだけですが実際はその自分の走るところに大切な役割が存在します。

みんなのために自分が走るのですが、自分が勝手に走っているのではなく自分自身が走ることが皆と走っていることになるのです。「思い」をつなぐというものは、自分の役割を認識しているということです。自分だけがよければいい、自分さえよければいい、自分のことさえやっていればいいという思いでは、その思いは周りの「思い」とつながることはできません。自分がどんな「思い」を籠めて自分の役割を果たすのかが本当の意味でも協力であり役割分担です。

先ほどのレストランの話で例えれば、本当に美味しいものは農家さんの安心安全で自然なものを育てたいという「思い」を、それをカラダに善いものを多くの人たちに食べてもらいたいという願いを籠めて集める「思い」と、大切に育てられ集められたものを崩さずに鮮度を維持し丁寧に素早く届けたいという「思い」と、届いたものをお客様に幸せに美味しく心身が健康になるように食べてもらいたいという「思い」が『つなぐ』からこそ、私たちはそのつながった思いを一緒に食べているのです。美味しいと感じるとき、それは単に舌先三寸で味わっているのではなく多くの方々がつながっていることを実感して深く味わっているのです。

駅伝での役割分担もこれに似ています、そして仕事での役割分担も同じです。

駅伝部が始動し、協力や助け合いといったことも深まりましたが実践というものはその「つながり」が観えているか、「つなぐ」気持ちで役割を担っているか、一人ひとりが目先の作業に意識を奪われるのではなく、その大切な「思い」を届けようとしているかということに関係するのです。多くの「思い」に支えられている人は「思い」によって助けられ、救われ、見守られ大きなお力添えをいただき事を成就していきます。もしも「思い」に支えられていない人ならば、その人は簡単にそこで力尽きるかもしれません。

人がお役に立つのは思いが観えるからです。

「思い」をつないでいるという感覚というものは自然循環の中で共生するいのちの姿を実感することに似ています。私たちは周りの方々の「思い」により大切に生かされてきました。そして生かされた自分、見守ってくださって育ててくださった方々の「思いの結晶」の自分。その偉大な恩恵を授かっている自分をどう盡していくかは、一生涯の命題とも言えます。

いただいた御縁、いただいた御恩、その中には「思い」がいっぱい詰まっています。その「思い」を大切に守り、そして仲間へと「つなぐ」ことが私たちの本当の「お役立ち」かもしれません。自立の本質は、周りの仕合わせが自分の仕合わせになることでしょうから子ども達のためにも常に自分の「思い」を大切に道を歩み続けていきたいと思います。

自然体

自然循環の中にある素直な世界の中で、私たち人間は自分たちの都合の良い世界をつくり上げています。本来の自然に沿った生き方をしていれば、人間の我欲や我執などに縛られにくいものでしょうが実際は個人主義が蔓延しそれぞれが自分の思い通りにしていこうと自分の価値観を優先しているものです。

本来は、すべての生き物たちは自分の都合を優先せずに自然に合わせて自然に沿って暮らしています。それは素直な世界であり謙虚な世界で生きている方が安心して信じた世界の中で見守ってくださっていることを実感できるからです。

そういうものを私たちは神様とも呼びましたが、実際の神様はお願いばかりする存在になってしまい本来の神様の姿とは程遠いものになっているように思います。実際の神様は自然ですから、自然の中にいて自然に沿っているときには絶対的な信の安心の中でその存在を実感できるように思います。

不自然な生き方とは何か、それは人間の都合ばかりを周りに押し付けていく生き方のことです。例えばこれは人間関係でも同じです。自分の価値観を押し付け合っていることをいがみ合い不仲、そして非協力、最終的には戦争に発展していきます。相手に都合がいいことは自分には都合が悪い、御互いに自分の価値観を認めさせようと躍起になっているだけでいつまでも折り合いがつくこともありません。

我儘さというものや自分勝手というもの、自己中心的な考え方があるからこそ価値観の押し付け合いからの人間関係の不仲は広がっていくだけです。だからこそ、そういう時は自分の価値観を見つめそれを手放しゼロベースで流れに従い応じて柔軟性を持って対応するチカラが必要だと思います。

そしてそれが素直さで謙虚さです。

素直さと謙虚さは、自分が何を間違っているかを確認するということです。それは天の声が聴け、自然の声が聴け、周りの声が聴ける状態です。聴けるというのは、自分の心に尋ねて心が感応しているということでもあります。

自分の価値観を手放し、大きな流れに身をゆだねていくことは信じているということです。信じていることがあれば、すべてを受け止めることができます。そして自分の方が変わっていくことを愉しんでいく境地に入ることが出来ます。

境地の体得をするまでどれだけ精進していくか、初心を忘れずに本来の活かされている自分を感じられているか、御縁のつながりが観え続けているか、日々に内省を続けて何が間違っているかを改善することが人格を磨いていくことだと思います。

出会いが人を変えていきます、一期一会の出会いを大切に常に自分に矢印を向けて自然に近づいていきたいと思います。

孤高の志~覚悟~

アメリカのオバマ大統領が尊敬する人にキング牧師が居ます。インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジーに啓蒙され、非暴力主義で黒人公民権運動を行った方です。

「私には夢がある・・」の一節は、オバマ大統領も演説の中で使っていました。私もこの演説をかつての映像で拝見したときは、魂が強く揺さぶられた記憶があります。

このキング牧師の遺した言葉にも、魂が揺さぶられるものばかりで如何に覚悟を持って生きることが大切か、自分自身を自分で決心し生きよという本気さが言葉の中に滲み出てくるような思いがします。そのいくつかはすべて、自分の人生の責任を他人に委ねるなという自戒が込められているようにも思います。不可能を可能にし、夢を実現するのはまず自分自身が覚悟を決めることであるということをキング牧師の生き方から学び直せます。

例えば、「もし世界が明日終わるのだとしても、私は今日りんごの木を植える。」があります。周りがどういう状況であろうとも、どんなに苦しみに打ちのめされても私は自分で決心したことは最期までやり遂げるという覚悟です。

そしてこうも言います。

「そのために死ねる何かを見つけていない男は、生きるのにふさわしくないのではないか」と。

生き方というのは死に方です。どんな死に方をするのかを何のために死ぬのかを決めていない人では、どのように生きるのかもまた決まらないだろうということなのでしょう。

「ほとんどいつも創造的でひたむきな少数派が世界をより良いものにしてきた。」とも言います。本気で遣りきってきた人たちが周りを変えていったのだという事実を語ります。そして「最大の悲劇は悪人の圧制や残酷さではなく善人の沈黙である」と。善人は思っていても実践しないから単なる善い人で終わります。実践する人は歩んだ道が遺りますから必ずその道の跡に気づいた人たちが自らを変革していく変化になります。やらない不正とも言いますが、不正をしていなければいいではなく見て見ぬふりもまた不正であるということでしょう。だからこう言います。

「人は『発言する』ことにのみならず、『発言しない』ということにも責任を持たなければならない。」と。自分自身の覚悟はどうかを常に確認して発言するしないに関わらず、その責任を自覚しているかということを問われているのです。

その人生は、最期の暗殺される瞬間まで覚悟が光り続けた自分を生き切った方でした。暗殺の前日のスピーチには、夢を生きるとは何か、そして自分自身を生きるとは何かを感じます。それを紹介して終わりたいと思います。

「これから何が起きようとしているのか私にはわかりません。私たちの前途に困難な日々が待っています。でも、今となっては、私にはどうでもよいことなのです。

なぜなら、私は山の頂上に達したからです。だから私は気にしない。皆さんと同じように、私も長生きがしたいものです。長寿とはよいことです。でも、今となれば私にはどうでもよいことなのです。

私はただ神のご意志を実現したいのです。神は、私が山に登るのを許されました。そして私は山の向こうに約束の地を見たのです。

私は皆さんと一緒にそこにたどり着けないかもしれない。しかし、今夜、皆さんにわかって欲しい。私たちは、ひとつの民として必ずや約束の地に到達するということを。

だから、今夜、私は幸せです。私は何も心配することはなく、誰をも恐れてはいないのです。私の眼は、神の再臨の栄光をみたのです。」

孤高の志は不滅です、真心で真摯に道を切り開く本気の姿勢を見習い、日々に自己の完成を精進していきたいと思います。

価値観を磨く~人格を高める~

人は今まで生きてきた中で自分の価値観というものを形成してきます。それは自分にとって好きなものは何か、自分にとって都合のいいのは何かということが身に付いてきた経過とも言えます。それは言い換えれば「生き方」とも呼ぶものです。どのような生き方をしてきたかが今であり、その生き方の集積が今の自分の価値観とも言うものです。

その生き方を換えることが自分を変えるということです。生き方を換えるような機会に出会えることは仕合せなことですが、みんな自分の生き方を換えてまで何かをやろうとはなかなか考えないものです。自分らしさをはき違えたり、相手らしさというものも勝手に勘違いします。価値観があるから自分の思い通りにしたい、相手を思い通りにしたいと思うものです。実際に自分がしないかどうかとは考えずに相手に求めては期待をするのは理念を実践するのとは異なります。

イエローハットの創業者である、鍵山秀三郎さんの掃除道があります。今では日本全国でその道を学び掃除に取り組む人たちが大勢増えていますが最初に自分の会社で掃除を始めたとき、社員は誰もしてくれなかったそうです。しかもその掃除をしている鍵山社長の手をまたいでいったといいます。 社員がみんな自主的に掃除をするまで10年はかかったといいます。それでも「掃除をしなさい」と強制はしなかったそうです。自主的にやらないと本物にはならないと気付いていたからです。

その鍵山さんの言葉にはなぜ理念を実践する必要があるのか、なぜ価値観を超えて人格を磨き心を成熟させていく必要があるのかの理由が示されているように私は思います。そのいくつかを紹介します。

「この国をよくするのは、財務大臣でもなければ、総理大臣でもありません。国民一人ひとりの、ほんのちょっとした生き方にかかっています。」

誰かをあてにし期待するのではなく、自分自身が実践することが生き方であり覚悟であるということです。

「人間は義務でやらなくてもいいことが、どれだけできるかということが、人格に比例していると思います。」

主体的に自ら気づき自らを変革できるものだけが人格を高めていけるということです。義務ではないということが磨いているという証です。

「いままで、誰にでもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続けました。そのおかげで、平凡の中から生まれる、大きな非凡を知ることができました。」

自分の生き方を換えることで世の中そのものが変わるという体験のことかもしれません。マハトマ・ガンジーが「世界を変えたければまず自分が変わることだ」という遺訓があります。

これは価値観のことを言っています。相手に変わってもらおうと思っても他人をあてにして自分の世界を変えることはできません。なぜなら自分の価値観がこの世界の見え方を決め、自分の価値観が実際の素直な世界とズレて見えているからです。

自分の価値観に固執し頑固になり、相手に自分の世界通りにいてほしいという欲望がある限り、世界はいつまでもとどまったままで何も変わることはありません。だからこそ思い切って自分の方を変えていこうとすることで、今まで気づけなかった新たな価値観に出会い自分自身の価値観をゼロベースで修正していくことができるのです。

自分が間違っていると気付くには理念が必要ですが、その理念に対して間違ったと気付いたならば柔軟性をもってサラリと変わってしまうことが謙虚さであろうと思います。そのサラリと変わるには、地味な実践が必要で日々にコツコツと理念に対して反省し内省し自分の価値観が独善的にならないようにメンテナンスする必要があるのでしょう。

価値観が異なることは別に悪いことではありませんが、一つの価値観を押し付けるというのは世界を縛り付ける妄想を拡大させているだけかもしれません。世界は本来は自然のように変わらずに存在しています。その自然の手ほどきを受けられる素直で謙虚な心をいつまでも忘れないように精進していきたいと思います。

私たちの理念「子ども第一義」とは、単なるらしさではなく子どもにどんな生き方を遺して譲っていきたいかということです。価値観で理念までも私物化し歪めることがないように克己復礼しつつ日々新たに理念の実践を深めていきたいと思います。

 

ブレない生き方~自己の理念経営~

人は理念や初心からブレることで、様々な問題が起きてきます。これは組織であれば組織がブレますし、個人であれば個人がブレます。自分が定めた生き方や優先順位が変わってしまうということは、何が大切なのかを忘れてしまっているということですから周囲から観れば何をやっているのだろうと思われるものです。

そもそも人は生きていれば、目先で起きる出来事によって忙しくなっていきます。忙しさというのは、心で決めた初心を失ってしまっている状態とも言えます。目先のことで追われていて視野が狭まりそれを処理するために日々を過ごしてしまうとそのうちその目先を処理するためだけに毎日を過ごしてしまうものです。そうやって過ごしてしまえば、重要なことを優先するよりも緊急のことばかりを処理することが優先されていくものです。

人生の優先順位がもしも緊急のことばかりでついていくならば、日々というのは浪費しその疲れも溜まっていきます。本来の重要なことが優先されてその実践を怠らずに順位が下がらないのならその日々は理想や理念、初心を忘れずに取り組めていますから疲れも程よく心地よい疲れを感じるものです。

人が理念からブレるというのは、初心(本来の人生目的)を忘れて生き方の優先順位を間違うことを言います。それぞれに人には価値観というものがあります。その人の価値観が優先順位を決めているといっても過言ではありません。しかしこの価値観というものは曲者で、今まで生きて来た人生観がその人の価値観を形成してしまいます。かつてどのように自分が生きてきたかが「生き方」ですから、その生きてきたままに自分が生きてしまいます。

しかしその生き方の癖が、もしも理念や理想と間違ってしまっていると気付いたならその生き方の癖を修正し、本物の習慣によって生き方を改めて上書きしていく必要があります。つまりは生き方の転換が必要になっていくのです。例えば、自利で生きてきた人が利他に生きると決めたとします。しかし実際は自利や我利ばかりに囚われてしまい利他で動くことが出来ないものです。それを何度も利他に向くように時間を設け、実践し、自分の心が変わらないように、自分の判断のモノサシがブレないようにと何度も何度も内省し修正していくことで生き方の癖が改善されていくのです。

人はもうこんな生き方はしたくないという反省が素直にできたなら、忘己利他(もう懲りた)と改心するキッカケにも出会えるかもしれません。しかしたとえそれで変わったにしても生き方の修正は一生涯の一大事ですから、実践を怠らず自らの精進を続けていかなければまたブレてしまうものです。ブレてもすぐに素直に直すことができればいいのですが、ブレていることに気づかないから余計に問題があるようにも思います。

昔のリーダーたちは、自分に耳障りのよくないことを忠言してくださる人を必ず身近に置いたと言います。そのことで自分の生き方のブレをチェックし、自らを素直に生長し精進していくための鏡にしたそうです。それはそれだけリーダーがブレると、周囲に大変な影響を与えてしまうことを自覚していたからなのでしょう。自分のことくらいや自分がなどと考えてしまうと、周りのことよりも自分のことで一杯いっぱいになってしまうものです。そうやって好き勝手にしてしまい自分の好きなことばかりやってしまうと確実に理念はブレてしまいます。

本来、本当に好きなのは、本当に大切にしたいと思った初心のことであったはずです。だからこそその本当の好きにどれだけ忠実であるかが自分を大切にしたことであり、その正直さが自分を信じて着いてきてくださった人たちを大切にしたことになるように私は思います。人はみんな自我や自利を超えた理念、つまりは大義に自分を使っていきたい、使ってもらいたいと願うものです。それがもしも個人的な欲望や我利我利に偏る価値観に従うのなら誰だって素直にやりたいとは思わないものです。

だからこそリーダーは、自分自身がブレていないかを常にチェックしていく必要があるように思います。理念というものは自分の心ですから、誤魔化しがききません。どれだけ自分の心に誠実であるか、正直であるかが「ブレない生き方」を実現していく鍵であるということなのでしょう。

生き方を換えるというのは、人生の一大事ですがその生き方が換わることによってはじめてその人の人生が大きく換わります。いつまでも換わらないのは生き方の方が問題だと気付くことが第一歩なのでしょう。生き方を換えていくための努力は、独立自尊、孤高の正対ですが常に理念を優先しているかを内省することで近づいていけるはずです。

仲間と一緒に歩んでいくのだから、周りを観ては自分を省みて実践を厳格に積み重ねていきたいと思います。周りの御力に少しでもなれるよう私自身も、克己復礼、精進をしていきたいと思います。

本物の学習

物事に取り組むとき、それが「身に付く」かどうかというものがあります。この身に付くとは自分自身のものになる、体得し会得するという意味で使われます。私もよく上手くいかないのはやってないせいだと言います。やって内省という意味で使いますが、やりもしないのに机上の理論をいくら語ってもそれは理想と現実が乖離していますから結果には結びつかないからです。

この理想(真)と現実(実)を合わせて真実とも言います。この真実は種を蒔けば実を収穫することができる自然のように常に自らやった分だけがかえってくる道理そのものです。

教育や学問も同じですが、やらされた人は身に付くことがありません。人間は誰しも必ず自分でやった分だけしか身に付きません。なぜなら体験しないものを学習するということはあり得ないことだからです。頭でいくら分かった気になったとしても、それは自分で体験したことではありません。学校の教科書で学んできた人は、なぜか体験せずに事を動かそうとばかりします。しかし実際の学問の本質は、常に試行錯誤しながら挑戦し、それを内省し改善し自らのものにしていくことで学習していくものです。

本を読んだり知識を得るために学ぶのは現代になってからで、本来の自然で生活していた頃はあくまで自らやってみて実践した分を紐解くために知識を用いていました。つまりは文化を伝承し継承するために、自分でやって内省してみて「ほどいた」分だけを身に付けることができたのです。

今は自分で気づいていない人が多いですが、気が付けば「やらされてやっている」だけの人が多くなったように思います。理論ばかりを戦わせては現場に行こうともしない、自分でやってみてもないのにどうやったらいいかばかりをいくら考えても、それでは真実に辿りつくことがないように思います。

やらされるという刷り込みは、一見、自分も同意してやっているような錯覚を起こしますが実際は頭でっかちになっているだけで自らやっているわけではありません。手間暇や面倒、または大変な思いをしてでもそれでもやっている人はその遣った分だけが自分の自信にもなり、自分の体験として集積されていきます。自然が正直なように人間の体験も正直です。正直者がバカを見るのは一瞬だけで、長いスパンで物事を観察すれば必ず遣った人が成長し成功するような仕組みになっているのがこの世の道理です。

頭ばかりをあまりに走らせているとやりたくないことばかりを思いつくものです、それはきっと脳ミソがサボり症だからでしょう。言われたことでも何でも、自ら気付くためにやってみることが大切だと私は思います。

やってみて、そのあとそれが何であったかを振り返ることができるなら理想と現実は必ず一致してきます。エジソンのように失敗を繰り返してでも成し遂げようとする根気強さが必要なのでしょう。自らやらなければ失敗もありません、やらされても失敗にはなりません。そうではなく自らやった分は失敗もありますが同時に成功もあります。どうせやるのなら、やらされることは一切はずして自分からやってみてやった分を愉しんでいくことが主体性が発揮される本物の学習になっていくのでしょう。

常にうまくいかないのはやっていないせい、上手くいくのは遣って内省と言い聞かせて今まで沁みついてきて身に付けた刷り込みを取り払い本物の学習を上書きするためにも主体性を発揮しやりたくなるような「身に付く環境創造」を模索していきたいと思います。

価値観の違い~思い込みと押し付け合い~

人間は人それぞれに価値観というものがあります、考え方の違いがあるといっていいかもしれません。例えば優先順位を1から10まで用意したものをそれぞれに選択させてみると、一人ひとり重要なことが異なるというように人それぞれに考え方があるとも言えます。

本来その価値観が異なるのはそれだけ持ち味を活かせるということでもあり、異なるからこそ御互いのやりたいことの組み合わせ次第では偉大に協力していくことができます。しかし一たびこの価値観の違いが人間関係において御互いに分かり合えない理由になっていたりするものです。

例えば、そもそも「信」を中心に置いているチームは助け合い支え合い認め合い任せ合うことができます。これは御互いの価値観の違いはあることを知りつつも、同じ方向と同じ目的のために力を合わせようということをそれぞれが決めているからです。そして決めたことが忘れられないように何度も御互いに初心を確認して、それぞれが価値観に流されずブレずに理念を優先して自分を周りに役立てていこうとできるように思います。言い換えれば信が立つのは、それぞれの価値観が異なることを肯定しつつも大切な初心や思いに対してみんなで心を合わせていくことができるからのように思います。

全然違うタイプの人間たちが同じ船に乗っているのだから、本来は違和感があるのでしょうがその違和感が仲間との信頼に変わってしまっているのがこの信じ合う関係です。アニメのワンピースの乗組員のように一家と仲間になっています。

しかし逆に「不信」が蔓延しているチームは価値観の違いがあるが故に御互いを理解しようとはせず、違うのだからと切り分けてしまえばそれ以上は御互いに近づいていくことはできなくなります。この人は価値観が違うと決めつけるのはその人の価値観でその人を決めつけてしまうからです。その人がどうかと思い込むのも、違うと相手を決めつけるのもすべては自分の価値観がそうしてしまいます。そうなると違和感が大きくなりお互いに価値観の押し付け合いになるばかりで仲良くなることはありません。 自分の思い込みが強いという人はすぐに自分の価値観を押し付けては、今度は相手の価値観も思い込んでいますからまるで腫物にでも触るようにびくびくしてしまいます。

その思い込みといった価値観を乗り越えて物事をゼロベースで観るには、まず大前提として素直な心が必要です。言い換えれば自分の価値観でだけで人の話を聴かないということです。そしてその自分の執着している価値観の優先順位を少し横に置いて何をもっともみんなが大切にしているのかを省みて考え直してみないといけません。理念や大義というものも、自分の価値観を超えたところに存在しているものです。何のためにといった目的や、真実や本質といった理想に対してどうありたいかという自分たちの決心や覚悟を定めたものに自分自身を合わせていこうとみんなが取り組むことで一心同体になっていくからです。

心を一つにすると書いて「一心」ですが、この心の置き所がみんなが定まってはじめて信は立ち上がっていくように思います。その信を立てるのは他でもなく自分自身であり、そして仲間たち一人ひとりの想いが立つことで絆も強くなります。倒れそうになる想いを何度も支えて、倒れても起き上がり、倒されないようにがっちりと掴む、理念を実践していくというのはまるで根をはり、養分を土から吸い上げ、風雨に晒されながらも太陽の光を浴びて大樹になっていく過程のようです。

認め合おうとはせずに価値観の違いばかりに目を奪われ価値観の押し付け合いばかりに終始しても結局は愉しくありませんし周りと協力して大きな目的を実現することもできません。周りに自分の価値観を押し付ける人は近寄りがたく、自分の価値観を守ろうとするあまり周りと協調することもできません。同じ価値観の人とは仲良くしても異なる価値観の人とは仲良くできないでは一緒に働くことも難しくなります。

組織にはいろいろな人がいますから、異なっていても同じ目的や方向を持つことでかえって異なっていることを活かそうと考え方を転じることが出来るものです。価値観が周りに理解されないと機嫌悪くふるまうよりも、こういう価値観もあるんだと感心して御互いに折り合いをつけていくことの方がお気楽に愉しんでいくことができるように思います。

価値観と理念とは同じではないことを改めて整理しておきたいと思います。引き続き、子どものためにも一緒に取り組むことの大切さを実践で伝えていきたいと思います。

地球一家

仕事でも作品でも、善いものはそれにかかわった人たちの想いが籠っているものです。それぞれに和の心で仲良く進めて、一つの目的のために力を合わせて協力して取り組んだものはその結果にも顕れてくるものです。これはモノづくりだけではなく、おもてなしでもいえることで、何かに関わる人たちの柔和な心というのは知らず知らずのうちに大きな影響を与えています。それを真心とも言ってもいいと思います。

しかしもしもそれを歪んだ個人主義で、それぞれがバラバラに自己主張をし仲が悪いままで進めているとその想いもまた仕事や作品に出てしまいます。割り切ってや、切り分けてなどとしていても無理にそうしたものが結果に出てしまい残念なことになってしまいます。関わる人たちの険悪な心というのは知らず知らずのうちに同じように影響を与えます。

人は自分が無意識に周りとの人間関係を崩していく人と、意識的に周りと仲良くしていける人がいます。それはその人の生き方の癖でもあり、基本を見つめ直す必要があるように思います。

基本とは、その自分の心がどちらにあるかということです。最初からつながりの中で進めている人と、バラバラの状態で進めている人がいます。自分ができればいいのだと、周りから助けられることを求めようともせずに自分さえよければいいと進めている場合はつながりぎは切れています。一緒に進めるのは、協力し助け合わなければできないという多くの御力添えをいただきたいという謙虚な心があるからできるのですが、一人でできる、認めさせたいといった傲慢な心が出てくることがあるのです。

全ての応用には基本がありますが、その基本とはその人の心の姿勢とも言えます。基本として感謝できているか、基本としてさせていただいていると思っているか、基本として授かったものだと思っているか、基本として和を尊び助け合い一緒につながっているか、また基本として丸ごと信じているかなど、その基本がカラダに沁み付いているからこそはじめて仕事も作品も、また周りとも柔和に愉しく取り組んでいくことができるのです。

そういう基本を身に着けなければ、知らず知らずに人間関係も険悪になり、何をやっても仲が悪くなってしまい、いくら技術力や能力があっても助け合いや協力が発生せず、自己満足の偏った仕事や作品になってしまい最終的には長続きしなくなるように思います。

まず自分の基本姿勢がどうなっているかを、他人に正してもらえることが素直さや謙虚さのようにも思います。自分が勘違いしているものを、自分が刷り込まれているものを気づき、それを改善するための実践を積み重ねて習慣づけていくことで次第に自分の悪習も見直されていくと思います。

一人になることが一人前と教え込まれた教育で人はみんなつながりを自ら切りバラバラになりました。本来は人間というものは一緒になることが一人前です。海外は個人主義で個人の能力ばかりを開発しますが、私たちの先祖は和を尊び、集団や仲間とチカラを合わせて仲良くすることで一心同体一緒にやってきたことで様々なことを乗り越えてきました。今でも個人が優先されると欲を抑え込めず世界はますます混迷を深めています。だからこそつながりやご縁、一緒にといった協力助け合いの地球一家であるという心が大切になってくると私は思います。

一家というのは、家族であるということです。家族は一緒ですから、いつもつながりの和の中で仕合わせに暮らしていくことを重んじています。

個人バラバラは弱くみんな一緒は強い、柔弱は剛強に勝るのもまた自然の摂理です。基本を勘違いしているうちは失敗もまた続きますが、子ども達の未来のためにも今の大人たちが謙虚に素直に日々の生き方の勘違いに気づき、今を堪忍して学び続けて精進していきたいと思います。

名誉の傷~トラウマ~

人は誰しもトラウマというものを持っています。このトラウマ“trauma”という言葉は、古代ギリシャ語で「傷」を意味します。フロイトが心的・精神的外傷のことをトラウマと名付けたところからきています。

人はかつて心的・精神的な傷を負うことで後遺症がいつまでも残っているものです。これは肉体的な傷と同じで、昔の古傷がいつまでも痛むように強烈な痛みを伴う怪我はのちのちまで感覚が覚えているものです。これを心や精神でも起きているとも言えます。

人はあまりにも強いショックを受けた時、それを自分の中で認めることができずに自分自身が乖離してしまうのです。昨日、自分と自身についてブログで書きましたがこの自分自身との関係の中で如何に認め合うことが必要かを書きました。実際には認めがたいことがあり認められないと拒絶するといつまでもその影響は引きずってしまうようにも思います。

自分との関係を認め合えなければ、どうしてもまわりも認められていると感じることができません。自分がいくら認めていると思っていても、周りは認めていないことは伝わります。その認められない理由の中にもしもトラウマがあるのなら、それがあることを自分自身が認め、周りにもトラウマがあることを伝えることで肩の力が抜けていくのかもしれません。

「傷」というのは、傷跡が残ります。完治したように見えていても、傷ついた記憶はいつまでもなくなりません。私自身も人間関係でかつて傷つき傷つけあい、自分自身を責めて許せなかったことで認めなかったことがいつまでも心の傷になり、現実で似たことがあれば胸が締め付けられ思考が停止し感情に呑まれ苦しくなって解離してしまうことが多くありました。生きていれば傷はつきますから、何度も傷を負っては前に進むことが嫌になることもあります。

しかしその傷の御蔭で、その後の人生を気を付けることができたり、また今までの以上に人を大切にすることが出来るようになったりします。自分自身の不注意から思いやりに欠けていたり、自分勝手な自我欲から大切な人を粗末にしてしまい傷つけたりと、自分自身が無意識無自覚でやってしまうことで人は互いに傷つけあいます。その傷つけあったことを未熟であったと認めていけば、その未熟であった自分を生長させて残りの人生はそこで学んだことを周りのためにとお役立てしていこうとすればその傷は名誉の負傷になるように思います。傷つくことを恐れてトラウマだとし諦めるのではなく、敢えて傷ついてでも前に進もうというのはその傷を負ってでも遣りたいことがあるという真心があるからかもしれません。

ドイツのショーペン・ハウエルが『名誉は、外に現れた良心であり、良心は、内に潜む名誉である。』と言いました。名誉の負傷は、傷ついた過去を学び直して善いものへと転じていこうといった主体的で幸福な生き方を選択するということです。

自分のトラウマを無意識に避けるのではなく、このトラウマは誰かの御役に立てると信じてそれを活かそうする真心、その方々にいただいた御恩を何かしらの困っている人に返していきたいという思いやりがトラウマをも活かすということになるのかもしれません。

痛みが分かる人は共感力が高い人ですし、痛みを知る人は他人の痛みにも優しく包み込むことが出来る人です。自分にはないといくら思っていても、過去の痛みはいつまでも心の中に遺っているものです。その遺った痛みを福に転じて同じような痛みの人たちに乗り越え方を伝えられるのなら、その痛みの御蔭様に感謝する日もくるでしょう。

すぐにはとはいきませんが、心で寄り添って痛みを分かち合えるやさしさと強さを自分自身で磨いていきたいと思います。何か意味があるといった味わい深い御縁に感謝して、傷を癒して傷を名誉に換えていきたいと思います。

 

自分自身

人は自分を信じて厳しくするのと、自分を信じないで厳しくするのではその甘えの構図は異なります。自分に厳しくすることは、本来は自分に甘えないということですが自分に甘えれば甘えるほどに間違った厳しさを自分に課してしまうものです。

自分というものは、本質的に進みたい自分と、現実的に進みたい自分が同居しているようなものです。つまり例えて観れば自分の中には二人の自分が存在しているように捉えてみればいいように思います。言い方は別にしてここでは「自分」と「自身」にして例えてみます。

自分というのが本質的自分だとしたときに、自身というのを現実的自分だとします。これらの自分と自身が協力関係にあるときは、自分自身になり一体となって信じ合うことができています。この状態のときは、無理に環境で自分を追い込まなくても自分の意志にあわせて身体が動いてくれます。朝早く起きて何かをしようとするときに自然に無理なく起きることが出来、健康健全で手伝ってくれるのは御互いの信頼関係が築けているからです。自分を少し優先してくれて自身がそれを支えてくれれば、ほとんどのことが融通無碍に自由自在に愉しく取り組んでいくことができます。

しかしもう一方で、自分と自身が不信になり信頼関係が結べていないと自分と自身が敵対関係になります。すると、自分がやりたくても自身がついてきませんから常に自分と自身で御互いに追い込み合ったりいがみ合って仲が悪くなっていては何をするにも無理をしないといけなくなります。朝早く起きて何かをするのも言うことをきかず、無理やりに目覚ましや何か環境で追い込んではなんとかしてしまうのです。環境を追い込んで無理やり自身を抑え込んだにせよ、自身と自分は同居していますからいつまでも仲が悪いままでは済まされません。如何に御互いに信頼関係を結んで折り合いをつけるかが大切で、これが他人との信頼関係を築くうえでもとても重要な要素になってくるのです。

自分自身と仲良くしていくには、信頼関係を築いていく実績が必要です。言い換えれば自分自身が御互いに甘えずに信頼を優先して協力していくことの集積があって、御互いがチカラを合わせて乗り越えていくことができるように思います。それは決して自身が言うことをきかないからと無理やりに環境で追い込むのではなく、自分自身と対話をして断捨離をし覚悟決心を定めて実践していくことだと思います。

実践というものは、自分自身の協働作業とも言えます。互いに信頼し合っているからこそ実践は続けていくことができます。実践できたという一日一日の積み重ねこそ、信頼関係の構築であり、御互いに「よく頑張ったね、有難う、御蔭様、恩にきるよ」という自分自身との励ましや思いやりが、周りへの信頼にもつながっていくのでしょう。

まず何かを判断する前に、自分自身が逃げていないか、甘えていないかを確認したら、後は真摯に実践を遣りきって内省していけば本らの自分自身に出会えるように思います。この世に産まれてきて、一生涯ずっと寄り添ってくれるパートナーは自分自身です。子ども達が自分自身のことを好きになるためにも、正直に信頼し合える関係を築いていきたいと思います。