人間は人それぞれに価値観というものがあります、考え方の違いがあるといっていいかもしれません。例えば優先順位を1から10まで用意したものをそれぞれに選択させてみると、一人ひとり重要なことが異なるというように人それぞれに考え方があるとも言えます。
本来その価値観が異なるのはそれだけ持ち味を活かせるということでもあり、異なるからこそ御互いのやりたいことの組み合わせ次第では偉大に協力していくことができます。しかし一たびこの価値観の違いが人間関係において御互いに分かり合えない理由になっていたりするものです。
例えば、そもそも「信」を中心に置いているチームは助け合い支え合い認め合い任せ合うことができます。これは御互いの価値観の違いはあることを知りつつも、同じ方向と同じ目的のために力を合わせようということをそれぞれが決めているからです。そして決めたことが忘れられないように何度も御互いに初心を確認して、それぞれが価値観に流されずブレずに理念を優先して自分を周りに役立てていこうとできるように思います。言い換えれば信が立つのは、それぞれの価値観が異なることを肯定しつつも大切な初心や思いに対してみんなで心を合わせていくことができるからのように思います。
全然違うタイプの人間たちが同じ船に乗っているのだから、本来は違和感があるのでしょうがその違和感が仲間との信頼に変わってしまっているのがこの信じ合う関係です。アニメのワンピースの乗組員のように一家と仲間になっています。
しかし逆に「不信」が蔓延しているチームは価値観の違いがあるが故に御互いを理解しようとはせず、違うのだからと切り分けてしまえばそれ以上は御互いに近づいていくことはできなくなります。この人は価値観が違うと決めつけるのはその人の価値観でその人を決めつけてしまうからです。その人がどうかと思い込むのも、違うと相手を決めつけるのもすべては自分の価値観がそうしてしまいます。そうなると違和感が大きくなりお互いに価値観の押し付け合いになるばかりで仲良くなることはありません。 自分の思い込みが強いという人はすぐに自分の価値観を押し付けては、今度は相手の価値観も思い込んでいますからまるで腫物にでも触るようにびくびくしてしまいます。
その思い込みといった価値観を乗り越えて物事をゼロベースで観るには、まず大前提として素直な心が必要です。言い換えれば自分の価値観でだけで人の話を聴かないということです。そしてその自分の執着している価値観の優先順位を少し横に置いて何をもっともみんなが大切にしているのかを省みて考え直してみないといけません。理念や大義というものも、自分の価値観を超えたところに存在しているものです。何のためにといった目的や、真実や本質といった理想に対してどうありたいかという自分たちの決心や覚悟を定めたものに自分自身を合わせていこうとみんなが取り組むことで一心同体になっていくからです。
心を一つにすると書いて「一心」ですが、この心の置き所がみんなが定まってはじめて信は立ち上がっていくように思います。その信を立てるのは他でもなく自分自身であり、そして仲間たち一人ひとりの想いが立つことで絆も強くなります。倒れそうになる想いを何度も支えて、倒れても起き上がり、倒されないようにがっちりと掴む、理念を実践していくというのはまるで根をはり、養分を土から吸い上げ、風雨に晒されながらも太陽の光を浴びて大樹になっていく過程のようです。
認め合おうとはせずに価値観の違いばかりに目を奪われ価値観の押し付け合いばかりに終始しても結局は愉しくありませんし周りと協力して大きな目的を実現することもできません。周りに自分の価値観を押し付ける人は近寄りがたく、自分の価値観を守ろうとするあまり周りと協調することもできません。同じ価値観の人とは仲良くしても異なる価値観の人とは仲良くできないでは一緒に働くことも難しくなります。
組織にはいろいろな人がいますから、異なっていても同じ目的や方向を持つことでかえって異なっていることを活かそうと考え方を転じることが出来るものです。価値観が周りに理解されないと機嫌悪くふるまうよりも、こういう価値観もあるんだと感心して御互いに折り合いをつけていくことの方がお気楽に愉しんでいくことができるように思います。
価値観と理念とは同じではないことを改めて整理しておきたいと思います。引き続き、子どものためにも一緒に取り組むことの大切さを実践で伝えていきたいと思います。