思いの結晶~ひと・つなぐ・いのち~

私たちは日頃は意識していませんが、それぞれに役割というものを担いそれぞれに活動することで社會を維持しています。例えば、私たちがお金を出してレストランで食べる料理一つ一つまで、野菜は種から実をつけるまでお世話する農家がいて、それを集めて出荷する方がいて、またそれを輸送する方がいて、料理する人がいて私たちは美味しいものを食べることが出来ます。

この一つ一つ何かが欠けても成り立たず、私たちはそれぞれに自分の役割を果たすことで周りの社會を活かすことができます。

明日駅伝大会に参加しますが、この駅伝にも同じような意味を感じます。それぞれに自分の役割を果たすからこそ、みんなでつないだ「思い」を、誰かに届けることが出来るのだと。駅伝は、それぞれは一人ひとりでそれぞれの与えられた場所を走ります。走っている最中は、自分の分担したものを果たすだけですが実際はその自分の走るところに大切な役割が存在します。

みんなのために自分が走るのですが、自分が勝手に走っているのではなく自分自身が走ることが皆と走っていることになるのです。「思い」をつなぐというものは、自分の役割を認識しているということです。自分だけがよければいい、自分さえよければいい、自分のことさえやっていればいいという思いでは、その思いは周りの「思い」とつながることはできません。自分がどんな「思い」を籠めて自分の役割を果たすのかが本当の意味でも協力であり役割分担です。

先ほどのレストランの話で例えれば、本当に美味しいものは農家さんの安心安全で自然なものを育てたいという「思い」を、それをカラダに善いものを多くの人たちに食べてもらいたいという願いを籠めて集める「思い」と、大切に育てられ集められたものを崩さずに鮮度を維持し丁寧に素早く届けたいという「思い」と、届いたものをお客様に幸せに美味しく心身が健康になるように食べてもらいたいという「思い」が『つなぐ』からこそ、私たちはそのつながった思いを一緒に食べているのです。美味しいと感じるとき、それは単に舌先三寸で味わっているのではなく多くの方々がつながっていることを実感して深く味わっているのです。

駅伝での役割分担もこれに似ています、そして仕事での役割分担も同じです。

駅伝部が始動し、協力や助け合いといったことも深まりましたが実践というものはその「つながり」が観えているか、「つなぐ」気持ちで役割を担っているか、一人ひとりが目先の作業に意識を奪われるのではなく、その大切な「思い」を届けようとしているかということに関係するのです。多くの「思い」に支えられている人は「思い」によって助けられ、救われ、見守られ大きなお力添えをいただき事を成就していきます。もしも「思い」に支えられていない人ならば、その人は簡単にそこで力尽きるかもしれません。

人がお役に立つのは思いが観えるからです。

「思い」をつないでいるという感覚というものは自然循環の中で共生するいのちの姿を実感することに似ています。私たちは周りの方々の「思い」により大切に生かされてきました。そして生かされた自分、見守ってくださって育ててくださった方々の「思いの結晶」の自分。その偉大な恩恵を授かっている自分をどう盡していくかは、一生涯の命題とも言えます。

いただいた御縁、いただいた御恩、その中には「思い」がいっぱい詰まっています。その「思い」を大切に守り、そして仲間へと「つなぐ」ことが私たちの本当の「お役立ち」かもしれません。自立の本質は、周りの仕合わせが自分の仕合わせになることでしょうから子ども達のためにも常に自分の「思い」を大切に道を歩み続けていきたいと思います。