人が何かをする際や物事に取り組む際には、能力と意識というものがあります。能力があるからこなせる人と、意識があるから取り組む人がいます。同じ物事を取り組んでいても、そこには確かな差があることに気づくものです。
例えば、マニュアルを使ってテクニックだけでできるのならロボットでもできます。しかしそこに確かな意識を入れろうとすれば手間暇かけてでもその人の意識が籠ります。陶芸なども、機械で大量生産したものと手作りで丹精を籠めてつくられたものでは手に持った時の重厚な質感が異なるものです。
これはモノづくりにおいても、能力と意識とは確実に異なるものがあることを意味しています。では意識とは一体何かということです。
現在の科学では、意識のことをはっきりと証明できているわけではありません。意識を失うとあるように、一般的には脳が意識を持っているとして脳が死ねば意識がなくなると定義しています。しかし、実際は意識がないかというと生きているのだから生命は存在しているのです。例えば、動植物にいたるまですべての生き物には意識があります。意識というものが存在している証ですから、意識がないものは一切存在しないはずです。
バッタが飛び跳ねるのは能力ですが、バッタが生きているのは意識です。生きようとする意識があって、その次に能力が出てくるのが本質ですから能力が先ではないことは事実です。
人間はこれを勘違いして能力だけで物事をこなそうとしていると勘違いしている人がいます。仕事においても、能力があるからやっているという考え方では意識はあまり関係していないように思えます。しかし実際はどんな「思い」で取り組んだか、どんな「意識」でやり遂げているかで、その能力の違いはそのうち数百倍もの差が出てくるものです。
進化成長の中に能力がありますが、能力とは意識によって開花していくものです。意識が強ければ強いほどに、その人の能力はより一層周りの御役に立つために変化していきます。自分の意識がどうなっているのかを確認する機会は少ないでしょうが、どんな「思い」を持って取り組んでいるか、どんな意識で実践しているかは人生において何よりも重要なことだと思います。
「真心を籠める」という言い方もしますが、意識を籠めるというものも同義です。常にどんな意識で周りと接しているか、どんな思いで今を生きているかが本来の能力に比例して御力を発揮することができます。
できるできないと考える癖や刷り込みは、能力だけで物事をみてしまい裁いてしまう自分の価値観の思い違いです。まさに論語にある「今、汝は画れり」です。実際はできるできないではなく、やろうとしているか、本気かどうか、情熱的か主体的か、自らそれを遣りきると決心したかといった「意識」の方が本来は何よりも大事なのです。
意識はエネルギーですから、その人のエネルギーが強ければ強いほどに能力が開発され開花します。自分のエネルギーを常に高め続ける努力や、自分の意識をブラッシュアップし続ける実践は、何よりも自分自身の変革を促し、自分自身に近づいていくための智慧であろうと思います。
「意識が変わる」ことは人が変わることです。
自分の意識改革を行うためにすべての努力があるといってもいいかもしれません。心が感じたままに、心の感動を刺激し、魂を揺さぶり、意識を磨き続けていくことを大切にしていきたいと思います。
子ども達にも何よりも大切なのは「意識を籠める」「真心を籠める」ことだとし、行動と実践を積み重ねて精進するモデルになるように引き続き理念を高めていきたいと思います。